Great Mechanics DX14 イデオン30th 富野由悠季インタビュー

アニメはすでに中高年の文化

――今日は「祝! イデオン30周年」という事で、監督にお話を伺えればと思っています!
富野:「イデオン」のTV放送をリアルタイムで見ていた人は、もう30代から50代くらいになっているんでしょうが、本来、そういった年齢層はマーケットになっていかないものなのに、今はアニメでもなんでもそこをターゲットにやっていますね。良くないことだと思います。預貯金を持っているのが55歳以上だということもあるんでしょうが……。
ガンダム」のおかげでアニメファンが高齢化していって、今やアニメ業界で食っていける人は老人になるまでやっていけるかもしれません。日本のアニメ業界というのはかなり特殊な状況にあるので、日本に関しては100年200年と続くものになるでしょう。今、メディアは日本のアニメを若者文化としてとりあげていますが、それは軽薄な見方で、ガンダム的なものはすでに若者文化じゃないわけですから。
――今、30代40代の人は「60歳になってもランバ・ラルの話をしているのかなぁ」、なんて笑い話をするのですが、現実味のある話ですね。
富野:そうですよ。そしてそういう歳になって話をした時には、「あれはアニメの話じゃないんだよね」ということがわかってくるのではないかと思います。僕は40歳になる前に「ガンダム」を手がけましたが、ランバ・ラルとハモンという関係のキャラクターをつくれたこと、それを夕方放送するアニメーションにまぎれこませることがどんなにうれしかったことか。でも当時は、誰もそのことを指摘して理解してくれる人がいないくて、悔しかったですね。

ガンダム」とは別の人間関係を描く挑戦

――イデオンを今あらためて見直してみると、本来なら「小学生〜中高生」をターゲットにすべき番組であるはずなのに、何て言うか、「オトナっぽさ」とはちょっと違う言葉なのですが、「ガンダム」以上にビックリさせられます。
富野:フィクションを作るということに関して、40年近く前から不思議だと思っていたことがあります。アニメでも映画でも、見て解るもので物語を構築して、意味が分かるようになっているものには、子供向けとか大人向け、という分類はないんです。もちろん年齢ごとの理解力というものはありますが、フィクションの中で語られるものに本当のことや心理がこめられていて、そして見る側にそれを理解する力さえあれば、子供でもわかってしまうものなんです。逆に馬鹿な大人だと死んでも分からない。
それなのに、なんで「子供向け」なんていうものを作るんだろうか。「これは子供向けなんだよね」というエクスキューズをつけているけど、それは真理を描く力量が足りないことを弁解しているとだけだと思う。一種のずるさですね。でも、アニメ業界というのは、それを認めることをしない世界です。20歳くらいから、僕はそのことを確信していましたが、「ガンダム」を作るときには本当に嫌でしたね。アニメ作品で、ロボットが登場するからといって、子供向けと考えるなんておかしいんですよ。
実際に「ガンダム」や「イデオン」を作るときには毎回戦闘シーンを入れなくちゃいけないとかは、子供向け風にするためのだましの手法だと思っていました。それさえやっておけば、テーマは哲学的でもいいってね。
――「イデオン」の主人公はコスモですが、物語早々からストーリーに置いていかれますよね。「ガンダム」のアムロは、彼を中心としたストーリーでありながら、それまでの一般的な主人公像と異なるイメージを描いて成功しましたが、コスモはさらに主人公の置き位置に対する考えを一歩進めようとしていたのですか?
富野:「ガンダム」から「イデオン」を製作する期間を考えると、「ガンダム」の成功とかファンの反応を考慮している時間はありませんでした。リアクションはまったく度外視して、自分が物語の作り手としてどこまでできるかを試すしかなかったわけです。「ガンダム」では、かなりリアルな人間関係を描けるということがわかりました。しかし、「ガンダム」以外にもうひとつ違うパターン、違う人間関係を描けないと自分が真に作家になることはできない、と思ったんです。そのためにロボットアニメという条件の中でどうしようかと考えてた結果、異星人ものにすることにした。他民族、文化のぶつかりあいというところをテーマにしようと考えたからです。
しかし、地球上でそれをやってしまうと、TVコードに引っかかる所がたくさん出てきてしまう。だから異星人なんです。人種論を、異星人がぶつかり合うとどうなるかという点から描こうとした訳です。人種論は「ガンダム」ではできるだけ伏せていたことなのですが、「イデオン」は、TVで正面きって人種問題をやってやろうというチャレンジでした。
象徴的なシーンはコスモにカララが輸血するシーンですね。元は同じなんじゃないかというところに集約される物語を作ろうと思った。すごく図式的かもしれませんが、こういう方法をやっておかないと、自分の作家性が先すぼまりになってしまうと感じたんです。
そして異人種、異なる文明の衝突というテーマの飢えにもうひとつ、親子の話、家族関係というテーマを設けました。「ガンダム」ではアムロの両親と、ザビ家ぐらいでしか触れていません。しかも、それも偶然うまく描けてしまったな、というレベルです。そこを「イデオン」では。「戯作者として作為的に作ることができるのか?」ということで試したことが、いくつか人間関係として盛り込んだつもりです。ですからコスモが主人公として自動的に取り残されてしまうことは、しょうがない部分でもあったのです。
――非常に野心的ですよね。
富野:ただ、本当はこういうことを後から言うのはよくないことですが、30年経った今なら、子供はいつも大人の目線から見たら取り残されてしまう存在なのだから、と言い逃れることもできます(笑)。

人間ドラマのための装置から出発したイデ

――子供の頃に触れて、その後大きくなってから見直したという人も多いのではないかと思いますが、「ガンダム」にしても「イデオン」にしても、なぜ面白いのか、なぜこれほど色々な人に受けたのか、はっきりと「これだ!」と説明できない人が多いんです。
富野:そういうものなんじゃないでしょうか。本当の批評家になろうという人でもないかぎり、面白さを解析する必要はないし、解析することに意味があるともあまり思えない。「PLANETS」という雑誌の第7号を読んだのですが、いわゆる学識高いというかサブカルチャーに見識のある人たちが鼎談で、どうして「イデオン」が面白いのかを述べていました。僕には学識がないから……というか畑違いだから、うまく評論して説明することができないのだけど、「そうか、『イデオン』ってこういう作品だったのか」という説明をしてもらいました。一番のけぞったのは、「『イデオン』は旧約聖書をやっている」と書かれていたことでしょうか(笑)。
異星人同士という関係には、圧倒的な距離の壁が存在しますよね。本来、人間の知識では接触できない場所にいる相手に、接触しないと衝突が起こらない。ある人は「富野の映画は時間と空間の考え方がめちゃくちゃで、都合のいいときにぱっと双方がぶつかりあう物語ばかりだ」と言われていますが、それはまったくその通りなんです。意識してやっていることで、そのためにデスドライブを設定したわけだし、それがなければ異文化、異星人との激突ができないですからね。そもそも、時間と空間を無視しているのは「スター・ウォーズ」だって何だってそうでしょ(笑)。
――「たかだか175万光年だ!」とという台詞もありましたね。
富野:そうそう。結局、時間と空間を飛躍させるために設定せざるを得なかったものが、イデなるものだったんですよ。確かに「イデオン」は時間と空間を無視しているんですが、本当に完全に無視してしまったらお話にならない。だから都合よく無視させるために、イデなるものを存在させたんです。

ヒトが面白いと思うものを描いたんだから面白い

――なるほど、イデとはもとは作劇上の理由から自然に出てきたものなんですね?
富野:時間と空間を便利に飛躍させ、異文化同士の衝突を起こさせるにはイデという絶対的な力が必要だったんです。しかし、「絶対的な力」なんてものと人間が向き合ったとしたらどういうことになるだろうか。そういう力が存在すると思っている劇中の人の心理、イデをどう考えるか、「この力って何なの?」という問題を、物語の中で解決させなければいけなくなったんです。あるいは解決できないまでも、糸口になるような物語、言葉を発見しなくてはいけなかったために、僕は「イデなるもの」にはまりこんでいってしまいました。
その答えをずっと考え込んでいるうちに、人間の欲望とか理想とか、観念の究極的なところまで自分自身が追い込まれていることを実感しました。そりゃ、根源的なことを考えますよ。
言ってみれば、旧約聖書を書き始めた人と同じ気持ちになってしまったんですよ。人生長くやっていると、そういう絶対的な力などというものがあったら……などと、ふと思う瞬間がある。そういうものは、実を言うと我々人間というか、多少知識を持った人間が、一般に共通で持つ願望なのか、目的意識なのか、達成したいものなのかは、わからないですけど、「ロボットアニメでそこまでいっちゃってるの?」というモノを見せられたら、よほどの人でない限りつまらないはずがない。「イデオン」が面白いのはそういうところだと思います。
だから言い換えると、僕がやったから面白いわけじゃないんです。みんなが本質的に面白いと感じるであろうことを、たまたま僕が「イデオン」をやってるうちに描き出した、ということなんです。追い込まれてイデのような設定を作って、人が思ったり感じたり考えたりする原理原則というものをくだくだと全部書き出したから「イデオン」は面白いんだよね。ただ、それをわかりやすくは説明してないですけれど。
――この間、ネットラジオであるプロレスの実況アナウンサーがずっと「イデオン」の面白さについて語っているというスゴい番組を聴きました。色々な人がそれぞれの語り口で「イデオン」の面白さについて語るっていう状況自体が面白いですよね。
富野:具体的な面白さについては僕は語ることができないので、皆さんにおまかせしますが、「見て無価値なものではない」という自信だけはあります。

頭で考え過ぎた後は身体の重要性に気付く

――「イデオン」はエンディングも衝撃的でしたね。個人的には映画版はハッピーエンドの一種だと思うんですが、それも意見は様々で。
富野:あの終わり方は、僕が「イデオン」から手を引いた、ということなんです。本当に「ヤバい!」と思ったんですね。このまま突き進んでいったらまちがいなく狂うと思った。当時僕は40歳くらいで、まだ狂いたくも自殺したくもなかったので、ああいうエンディングに収めて逃げたんです。だから狂うまで自分を追い込めなかったふがいなさを感じる面もあって、「イデオン」のエンディングはかなり嫌いです。イデなるものを目指して作品作りをしていったら人は狂うということがはっきり分かったからですね。
そして、頭でばかりものを考えていたおかげで、はじめて自分の体のことを考えました。肉体を持っている人間というのは、骨と血と筋肉も肉体も使ってこそ人間なんだ、動物であるということは首から上だけ、つまり頭だけで生きている訳ではないんだという事に気付いたんです。体が気持ちよく生きる、ということも生きている間にしなくちゃいけないことなんじゃないかということがすごくよくわかってきた。
でも、現代人は首から上だけで生きてる人間が、いっぱいいるらしいということもわかってきた。先ほどの雑誌の鼎談では、「イデオン」以後の富野は「ターンA」までダメだ、とバッサリでした。いつも「客観的に見ている座視がありながら人間関係をやる」という原則を踏み外して、人の情の絡みにとりこまれていると言われました。「なるほどそうか」とも思ったんですけどね。

モビルスーツより重機動メカが好き!?

――作品の本質に迫るお話を色々うかがいましたが、「イデオン」のメカについては今思うところはありますか?
富野:「ガンダム」よりよほど気に入ってるものがいっぱいあるのに、どうしてみんなそれに気付かないのかなと気に入らなかったんですよ。
――「ガンダム」はこれまでのロボットアニメのあり方を崩す試みがなされていましたが、「イデオン」は逆に昔ながらのロボットアニメの手法を踏襲しつつ、どう昇華するか模索したように見えます。
富野:「見えます」じゃなくて、そのとおりですよ。意識して仕掛けています。そうでなければあんなにイデオンがミサイルを四方八方に発射したりしませんよ。アレを撃たせるためにどうするかを考えてバッフ・クランのメカを作りましたし。「ガンダム」のモビルスーツ戦より好きですね。でも、「みんなこれは好きじゃないんだな」と正直なところかなり落ち込みましたけどね。なんで手ごたえがないのかな、アニメのメカらしいのになと思っていましたけどね。
――30年早かったんですね。
富野:ですが「イデオンのメカは絵空事なんだよね」というのはあります。バッフ・クランのメカは動きとか形態、人の操るロボット的なものとしては僕にとってフィクションの中のメカとして限界なんですよね。
あともうひとつ、「イデオン」のメカといえば、ああいうものを作っていたおかげで気が狂わないで済んだのではないかと思っています。ああいう遊びもなく、殲滅戦につながっていく異文化接触論をやって、さらにイデなる絶対力、イデという善意の凝縮体、善意が凝縮していったらどうなるのか、などということばかりずーっと考えていたら作者は狂ってとっくに自殺してますよ。
そういう大変なことを考えながらも、一方で「今度はこんなメカでいきたいよね」なんて考えて遊んでいたからそれが脱出装置になったんですね。もちろん脱出装置な訳ですから、作家としてつきつめていけなかったという悔しい思いもあるんですけれど。
ただ、30年経ってみると、身体性というもの、体を持たされているから生かされているということを考えると、メカもその延長線上としてあるべきとした場合、ロボットというものが承服しきれない点もあるのです。「健全な肉体に健全な精神は宿る」という言葉は正しくて、だからこそ我々はそれ以上のものを求めてはいけないんじゃないかとも思うんですね。電子化なんていうのはそれを超えていってしまっているものだと思うんです。肉体を無視して頭だけですべてを考えている。……ああ、なんで僕がGoogleiPadなどをウサン臭く思うのか、今わかりました(笑)。
――イデオンだけでなく重機動メカも含めて、あのデザインでよくあそこまで、というのはあります。
富野:やはりアニメといういい加減な媒体だから成立したんだと思います。手描きのアニメーターたちは必ずしも正確に画を描けるわけじゃないですから、ああいうものができたんですね。もう少しリアルに「こんなの成立する訳ないでしょ」って重機動メカを切って捨てるような連中だったら、ああいうものはできなかったんです。簡単に言えば、いい意味でバカの集まりだからできたんですね。理知的に考えたらああはならない。
ところが今の3DCGというのはデザインや動かし方といった根本的な部分に映像媒体の工学がはいっているじゃないですか。工「学」ですから、それは理知的なものです。だから3DCGが主流になると、もう「イデオン」みたいなものはできないんじゃないかと思います。あのピクサーですらCGでアニメ的、漫画的に描こうとしていてもうまくいかない部分がある。CGで作画をせざるを得ない時代なのに、デジタル技術で作る新しいキャラクターができてないというのが、一番の不幸なんじゃないかと感じています。そういう時代に対応できるデザイナーの方がいたら次回作のためにも、ぜひお会いしたいですね。