2018年の本

 一年越しの更新となった。はてなダイアリーの終了が告知されたこともあり、恐らくこれがはてなダイアリーへの最後の投稿になると思われる。今年は昨年より状況が悪く、完読ではなくつまみ読み程度で終わった本が多かった(読書メーターの更新も滞っている)。とはいえ、今年刊行の本を中心に、いくつか印象に残った本を整理したい。

■国際政治
 政治学の範疇に入る本自体がそれほど読めず、どちらかといえば国際政治・日本政治に区分されるような本に偏った読書をする一年であった。ここでは広く国際政治にまとめられる本を取り上げたい。印象に残ったのは、西平等『法と力』、田所昌幸『越境の国際政治』、小川浩之・板橋拓己・青野利彦『国際政治史』、モーリス・ヴァイス『戦後国際関係史』の四冊だった。

西平等『法と力―戦間期国際秩序思想の系譜』(名古屋大学出版会)
 20世紀に国際政治学は、どのようなロジックから生まれたのか?それは国際政治学誕生の時点で存在していた学問であり、勢力均衡など、その後の国際政治学に導入される様々な概念を先取りしていた国際法学とどのような関係を有していたのか?本書はアドルフ・ラッソン、エーリヒ・カウフマン、ハンス・モーゲンソーらドイツ語圏の国際法学者の議論を辿りながらこの問いに対する答えを与えるものである。
 著者は、戦間期国際法学では法と国家間の勢力関係が密接に関連しており、勢力関係の変動は国際法の変更を提起するという動態的な国際法理論が影響力を有していたこと、同じ問題を考察する方法として国際政治学が生まれたという興味深い議論を展開する。国際法国際政治学は人的のみならず、知的にも密接に連関しているものだった。
 国際政治において法と政治がどのような関係を持ちうるのか、という問題を扱う本書は、非常に刺激的で、モーゲンソーやE・H・カーといった初期国際政治学の著作を読解する点でも有益なものになると考えられた。まさに待望の単行本というところがあったことから、今回ここに選ぶこととした。

田所昌幸『越境の国際政治―国境を越える人々と国家間関係』(有斐閣)
 移民・難民といった、ヒトの移動(国際人口移動)が今や国際政治上の大問題となっていることは周知のとおりで、国際人口移動自体については研究も少なくない。本書の特色は、こうした人口移動の問題が国内外の政治との間で、どのような論点を生じさせるのかを扱っている点にある。旧著『アメリカを超えたドル』では、著者は国際政治における通貨という問題を扱うことで、独立して存在しているように見える金融・通貨に対する政治の影響を鮮やかに明らかにしたが、本書も同様に問題と政治との関係を明らかにする一冊といえよう。

小川浩之・板橋拓己・青野利彦『国際政治史―主権国家体系のあゆみ』(有斐閣)
モーリス・ヴァイス(細谷雄一・宮下雄一郎監訳)『戦後国際関係史―二極化世界から混迷の時代へ』(慶應義塾大学出版会)
 前掲の二冊が学術書であるのに対して、続く二冊は通史である。どちらも近年の国際政治の混乱を踏まえつつ執筆されていることに特色があるといえるだろう。小川ほかの『国際政治史』は、16世紀から今日までの国際政治の展開を扱うオーソドックスなテキストで、20世紀以降がその叙述の中心となっているが、オーソドックスに諸事象を参照できるバランス感が気持ちのよい一冊である。
 一方、第二次世界大戦後を扱う後者は比較して著者の特色が出ている。文中の小見出しもユニークで興味を惹くものだし、アフリカや中南米など、ともすれば見落とされがちな地域への目配りも印象的である。日本で平均的に教えられる「国際政治史」とはかなり雰囲気が異なるが、前者のようなオーソドックスな一冊と併読することで特色をより楽しめる一冊であると感じられた。
 また国際関係に関する通史としては、ロバート・マクマンのコンパクトで定評ある冷戦通史である『冷戦史』も訳出されるめでたいこともあった(青野利彦監訳、勁草書房)。

■外交史
 こちらでは国際政治より狭い外交史研究というジャンルの、学術書というくくりでの印象に残った本を取り上げる。今年刊行された本は粒ぞろいという印象を受けたが、特に印象に残ったのは、高橋和宏『ドル防衛と日米関係』、金恩貞『日韓国交正常化の政治史』、武田悠『日本の原子力外交』、黒田友哉『ヨーロッパ統合と脱植民地化』、大久保明『大陸関与と離脱の狭間で』の五冊だった。

高橋和宏『ドル防衛と日米関係 ― 高度成長期日本の経済外交 1959~1969年』(千倉書房)
 本書はブレトン・ウッズ体制基軸通貨であるドルの信認を揺るがすこととなった米国の国際収支問題(ドル防衛問題)と、日米関係史との接点を分析した研究である。米国の抱えるグローバルな課題としての国際収支問題への対処という軸を通すことで、経済大国として台頭しつつあった日本の貿易自由化問題や東南アジア開発、沖縄返還交渉といったそれぞれに連関のない日米関係の様々なトピックが、米国にとっては同じ問題に対処するための問題群であったということが浮かび上がるという興味深い研究である。
 固定相場制度が終焉して久しい今日から見て、決して目立つテーマではないが、外交史としての実証の手堅さもあり極めて読み応えのある一冊になっているといえる。特に日本がこの問題について協力的であると米国に認識させた(誤解を抱かせた)ことが、沖縄返還交渉を前進させるきっかけとなった点を指摘する第5章は、一般の関心も引くところだろう。岩間陽子氏の毎日新聞書評が示すように、国際収支問題という課題に正面から向き合っている点からすれば、本書の意義は日本外交史や日米関係史としてよりも、米国外交史研究にとって大きいといえるだろう。

金恩貞『日韓国交正常化交渉の政治史』(千倉書房)
 戦後の日本の外交交渉の中でも、とりわけ長い時間を必要とした日韓国交正常化交渉を明らかにした実証研究である。本書の特色は、特に日本側の外務省を中心とする政府内検討プロセスを明らかにしながら、その交渉の一貫した論理と、それを元にした交渉の様子を描き出したことだろう。著者は旧来の研究を、長期の交渉がフェーズごとに異なった形で遂行されたという「断絶史観」、個々の局面での政治家間の交渉が決定的だったとする「政治家決定史観」、日韓を連携させたかった米国のプレッシャーが重要と評価する「米国介入史観」などと整理を行いつつ、これに対して特に日本側の内在的な論理を検討することで「連続史観」という視点を打ち出している。
 日本政府内で検討されたロジックや、政府内交渉プロセスを明らかにするという視点は、既存の視点では説明できなかったものを明らかにする。国家の基本的関係を定める条約であり、国際法とカネが交錯する重要な政策課題であるだけに、適切なロジックに何とか道筋をつけようとするプロセスの描写(特に大蔵省の外務省に対する抵抗は強烈だ)は単純に読み物としてもおもしろく、読み応えのある一冊となっている。

武田悠『日本の原子力外交―資源小国70年の苦闘』(中央公論新社)
 東日本大震災以後、日本における原子力の問題が様々な形で関心を集めたことは記憶に新しい。特に日本がどのような理由でかかる政策を展開してきたかについては、震災を機に復刊された吉岡斉『原子力の社会史―その日本的展開』(旧版1999年)などが、平易な説明を行っている。
 それに対して本書は、戦後の原子力発電の導入をはじめとする原子力平和利用、国際的な核不拡散政策への参画など、日本の原子力政策の国際的側面を平易に描く通史となっている。日本は核燃料については輸入国であり、兵器としての核兵器保有しない国でありながら、原子力をめぐる国際協調が進む中で、有力なプレイヤーとして枠組みの形成に寄与していった様子がわかり、地政学的、あるいは経済的な視点から見る日本外交とはまた違った像が浮かび上がるのも面白いところといえるだろう。
 原子力と日本政治をめぐる言説としては、政治家などの突発的な「核武装」発言が注目を集めるところだが、本書ではそうした突沸的なものは捨象されているのも印象的である。この政策分野が、そういった情念では如何ともしがたいものであることもうかがわせるだろう。技術的・専門的な議論も少なくないが、国際政治の大きな動きの中に原子力を位置づける様子がわかり、門外漢の自分にも読みやすい一冊となっていた。

黒田友哉『ヨーロッパ統合と脱植民地化、冷戦――第四共和制後期フランスを中心に』(吉田書店)
 本書は、1950年代の欧州統合の進展と、旧植民地(海外領土)政策がどのような連関を持っていたのかをフランス外交史の観点から分析する研究である。決して日本人にとってなじみ深いとはいえないテーマだが、過去の遺産である海外領土と、新しく進めつつある欧州統合という政策とどのようにすり合わせつつ、かつ当時の時代状況である冷戦に対応するのかという幅のある問題を扱っており、扱われる史実に明るくない人間にも様々な関心を呼ぶものとなっていると思われる。また前掲ヴァイス『戦後国際関係史』は、このような文脈を持つフランスだからこそ書かれた幅や癖を持っているのかという点を想起させる点でも興味深かった。
 また本書で印象的なのは、なじみのないテーマであることを意識してか、欧州統合研究、フランス外交史研究、国際関係史・外交史研究など、幅広く、多義的に自らの研究の意義付けを行なっていることだろう。外国研究の意義をどのように伝えるかの戦略性でも、考えさせられるところが大きかった。

大久保明『大陸関与と離脱の狭間で―イギリス外交と第一次世界大戦後の西欧安全保障』(名古屋大学出版会)
 前掲の黒田本と同じくヨーロッパ外交史の範疇に収まるが、本書の扱うテーマは時期的に更に古く、第一次世界大戦時からロカルノ条約調印まで、ヴェルサイユ条約調印前後のヨーロッパの安全保障問題をイギリス外交の視点から考察するというものである。
 このようなテーマ自体は、日本人にも多少なじみ深いものと思われる。この時代がなぜ長期にわたる平和を創出できなかったのかという問題は、E・H・カーの『危機の20年』や『両大戦間における国際関係史』、ケインズの『講和の経済的帰結』といった古典的著作でもよく論じられてきたもので、ヴェルサイユ条約の制度的な欠点や、民族自決国際連盟といった戦後秩序に大きな影響を与えたウィルソン大統領の理想主義の悪弊が非難されてきた。
 しかしその後の欧米での研究蓄積を活用しながら、著者はそのような旧来的な評価に疑義を呈する。著者によれば、ヴェルサイユ条約の生み出した安全保障枠組みはそれ自体に欠陥があるのではなく、適切な形での強化・発展が様々な要因によって妨げられたことに問題があった。米国は早々にこの枠組みから離脱し、イギリスは「大陸関与」という形でこの枠組みを強化する必要を認識していたが、フランスとの軍事同盟など、ヨーロッパへの強力なコミットメントを目指すまでには至らなかった。そして1930年代に至ってドイツが再起を目指したときに、このように煮え切らないイギリスの行動は状況を悪化させることとなる。
 なまじか知っているように思っている歴史が全く異なったものとして描かれることは、自分の所与の認識を解体される快感があった。また本書の特徴ともいえるイギリス政府内における詳細な対外政策決定過程の説明も、(若干煩雑だが)興味を持つ人間には有益だろう。
 また分厚い先行研究がありながらも、それとの差別化に執心していないことも、恐らく本書のポイントではないかと思われる。よい意味で先行研究の示してきたものを必要に応じて採用しつつ、強調すべき点を強調するスタイルは、分厚い先行研究を持つ分野でおもしろい記述をするには必要なことだろう。ただ、このエピローグであれば、同じだけの紙幅を割いて30年代のイギリス外交の検討も期待したいと感じさせるものであった。同様の密度の研究が読めることを期待したい。

■回想
 回想録、また当事者による執筆物の範囲で印象に残ったのは、田島高志『外交証言録 日中平和友好条約交渉と訒小平来日』、秦郁彦『実証史学への道』、ヴァルター・ネーリング『ドイツ装甲部隊史』の三冊だった。

田島高志(高原明生・井上正也編集協力)『外交証言録 日中平和友好条約交渉と訒小平来日』(岩波書店)
 本書は調印から40年となる日中平和友好条約をテーマとしたもので、当時の外務省担当課長(アジア局中国課長)による回想録と、研究者二名を交えた鼎談から構成されている。本書の回想録はややもすれば担当者レベルの平板な記述が続き読みづらい。しかしながらよく読み込んでいくと、福田赳夫首相、外務本省、北京の日本大使館など、関連した組織が一体となり、意思疎通を密接に行いつつ、じわりじわりと中国側と認識のギャップを埋め、徐々に交渉に向けた関係を築いていく様子が読み取れる。同条約交渉に関する既存のドキュメントなどと組み合わせつつ読むと、ニュアンスが読み取れる箇所が多く有益な一冊だった。
 また座談会は本書全体の見取り図を提供する意味で有益である。本書についてはまず座談会から読むことを推奨したい。

秦郁彦『実証史学への道― 一歴史家の回想』(中央公論新社)
 いわずと知れた秦郁彦氏の読売新聞「時代の証言者」連載をまとめたもの。大本営発表の戦果を記録することでその情報に疑問を抱き、大蔵官僚をやりながら歴史家としての経験を積み、最後はあらゆる方面と戦う歴史家となる。これからの時代には二度と出ない人間であることをうかがわせるに十分な一冊であり、読了後謎の活力が湧いてくる。同世代の伊藤隆『歴史と私―史料と歩んだ歴史家の回想』と併読したい一冊である。

ヴァルター・ネーリング(大木毅訳)『ドイツ装甲部隊史1916-1945』(作品社)
 著者は戦間期からドイツ軍装甲部隊の育成に当った陸軍将官による、ドイツ装甲部隊の誕生から終焉までを描いた通史。自らについての言及も三人称としており、一般的な回想録ではなく日本の例に照らせば、淵田美津雄・奥宮正武『機動部隊』(初版1951年)などを想起させる一冊である。
 エピソードだけでなく、編制や運用などを含む通史としての読み応えもあり、また実際の作戦については臨場感もある描写が織り交ぜられており、ドイツ戦車部隊に関心を持った人間が最初に読むのに適した、情報量のある一冊であるように感じられた。

■新書
 内容でなく書籍の形態を区分とするが、新書形式で刊行された書籍としては、佐々木雄一『陸奥宗光』、吉田裕『日本軍兵士』、松沢裕作『生きづらい明治社会』が印象に残った。

 新書と言えば12月になり、一部で関心を呼んだ話題として苅部直丸山眞男リベラリストの肖像』における先行研究の取り扱いをめぐる論議があった。その詳細は省くが、この論議における河野有理氏による指摘は、「言ったもの勝ち」が蔓延する今日、そうした卑しい行為を打ち消す極めて有益なものだったと思われる(リンク1リンク2)。

 なぜ上記の論議に触れたかといえば、新書という形式で印象に残った本をセレクトするとき、二つ目の投稿の「新書における先行研究の取り扱い方について」という項目に考えさせられるものがあったからである。以下に一部を引用する。

「無視しうる先行研究」が存在すること自体を否定される研究者の方は少ないと思います。ご自分の研究の実践において日々色々な先行研究を無視しているのではないかと思います。もちろん、「無視しうる先行研究」の幅は場面ごとに伸縮します。例えば、博士論文の第一章、その主題についての研究史整理パートであれば、その幅は極限まで狭くなるでしょう。学問的に形式的な基準を満たしている先行研究は原則悉皆網羅するべきでしょうし、大きな欠点があるものであっても、その欠点を含めて研究史の中に位置づける作業が求められます。ですが、たとえば一般読者向けでもある新書においては先行研究整理が求められているわけではありません。「無視しうる先行研究」の幅はぐっと拡大し、大胆な「選択と集中」が求められるはずです。

 この指摘は「いわゆる(学術的な)新書」における参考文献のあるべき取り扱いを示すもので、適切なものであるといえよう。私はこの指摘に同意する。ただ、同時に頭に浮かんだのが、今日の新書のありさまで、この言葉の意味を十分理解できる人がどれだけいるだろうか(とりわけ騒いでいるような類の人間に)、ということであった。
 
 2003年の『バカの壁』の大ヒット以後、二匹目のドジョウを狙い出版社が新書レーベルを次々創刊して十数年が経ったが、新書の売れ行きは書籍全体のそれと連動しながら低迷しており、刊行点数だけは惰性で増え続けていることは周知のとおりである。その結果、学術的な書き手による新書についても、いわゆる入門新書の一方、博士論文や本来四六版や選書で出すのが本来適当であろうテーマや内容量のものまで、新書で刊行されている実情がある。こうした新書はやたら高額で、分厚かったり、これでもかと注が付いていたりする。甚だしくは前者の範疇に入る本でありながら、後者に影響されたのか、やたらと注をつけた本さえまま見られる。
 河野氏の指摘を踏まえれば、本来、前者と後者で文献リストや注の価値が違うのは明白である。こうした新書が出る背景には諸事情があろうが、かかる実情を見ると、「学術的手順」を云々したがる人間は、そうしたことが十分理解できるのか、リテラシーがあるのかと、ただ注が付いていれば同じだと考えるのではないかと、いささか懐疑的になってしまったのである*1

 好みを言えば、こうした(後者の)新書は、出版社の商業的な動機を除けば新書という形式で出す理由は特にないだろう。活字は小さく、物理的にかさばり、本としては極めて不細工である。新書という媒体のあり方をやたらと乱すだけで、意義が見いだせないところである。

 話が大きくそれた。上記の三冊は、こうした私自身が最近の新書に感じているフラストレーションとは無縁で、適切な形で刊行された本との印象を受けたものだった。

佐々木雄一『陸奥宗光―「日本外交の祖」の生涯』(中央公論新社)
 知識人でありながら、同時に政治の世界で権力を求めた人物として陸奥宗光を描く本格評伝である。コンパクトでありながら、行間から史料の博捜が察せられ、冗長に書くことができるであろう部分も、最小限でまとめているのが小気味よい一冊である(28-30頁の上海行きの下りなどは、それを感じるところであった)。参考文献リスト・文献案内も丁寧に作られている。
 著者は本書でただの策謀家としての陸奥ではなく、「活躍の場を求める知識人」としての陸奥を描きたかったと強調している(Webインタビューを参照)。この点は、意識すると読み取れる部分が端々にあるが、実務家としての陸奥を描く中に埋め込むと、ただ優れた能吏の眼という風に読めてしまう難しさがあるようにも感じられた。権力の中の知性を描くことの難しさということを感じさせる意味でも興味深いものだった。

松沢裕作『生きづらい明治社会―不安と競争の時代』(岩波書店)
 岩波ジュニア新書という媒体で刊行されたこともあり、平易で読みやすい明治社会史である。江戸時代という旧秩序が終わり、変革の時代としての明治時代に、いかに人々が不安なまま競争に駆り立てられ、かつ何らかの挫折に陥った時にその原因が優勝劣敗にあったと判断される通俗道徳の「わな」に陥っていったかを描く一冊であり、現代社会との比較の視点を濃厚に打ち出している。追い詰められた(追いつめられるかもしれない)人間に対する本書の視点の暖かさは好ましく感じられた。
 本書の視点に共感すると共に、それにしても興味深いと感じたのは、こんな体たらくでありながら明治日本が「何だかんだでなんとかなってしまった」と思われていることの不思議であった。この双方に立脚する視点の難しさについて考えさせられるところがあった。

吉田裕『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』(中央公論新社)
 日中戦争・太平洋戦争といった一連の戦争で、多くの日本軍の兵士が、なぜむごたらしい死を迎えるに至ったのかを、兵士の身体性や、日本軍の組織的性格など、様々な視点をもって検討した一冊である。日本陸海軍は、人間を多数運用するに適さない計画だけは持っているが、まっとうな衛生・医療措置も、支援体制も持ちえない、甚だ貧弱な軍隊であったという、直視せざるをえない現実が本書では明らかになる。若干エピソードを繋いで導き出すような主張がなくはないが、ピックアップされる証言や史料にはページを捲るのが辛くなる部分が多々あった。著者の旧著『日本の軍隊』『兵士たちの戦後史』などと一緒に、正統派左派軍事史研究と言えるだろう。

■最後に
 長い文章を書くのは億劫だが、なんだかんだと印象に残った本を書くのは楽しい。どなたかがここで紹介した本を手に取ってくれることを期待したり、お前のパラフレーズはおかしいとより面白いレビューを披露したりしてくれるのを待ちたいところである。

 最後に、今年は、復刊でもわりと良い本が多かったことに触れておきたい。猪木正道共産主義の系譜』、林健太郎『昭和史と私』、岡茂雄『本屋風情』、久保田勇夫『役人道入門』がそれである。前三者は、小ロット高価格という文庫ならではの色あせない本の復刊だと感じられた。
 また、最後の一冊はソフトカバー本の新書化だが、最近個人的にも公的組織の人間とお付き合いが多いため、教えられるところが多かった。財務省のキャリア官僚として実績を積んできた著者の文章は、砕け過ぎず固すぎずで、人への仕え方、人の動かし方、組織の動かし方など、様々な問題についての学びの多い本であった。

*1:蛇足だが、今年の夏、Twitterでは『新潮45』休刊の引き金を引いた小川何某の過去の執筆物などについても、査読だのなんだのとあれこれ勘繰りをする様子が見られたが、これもまた適切な指標を用い得ない人間のバカ騒ぎのようにしか思えなかった。