戦国時代(特に後期)の研究者(市井でなくアカデミズム)って他の時代に比べると何気に数が少ないんじゃないのかな。実は基礎資料が多くないのもあって、俗説が放置されていたような感も。
2012-09-16 11:06:24こう思われちゃうのか。研究者の数は、他の時代に比して多いです。史料の数も手に負えないくらい多い。だからこそ、俗説の駆逐にまで手が回らないんだけれど…。というより、俗説がなにか、をあまり意識していなかったり。 https://t.co/blOgzrDY
2012-09-16 13:18:29@trinh_JP 仕事の一部ではあっても本業ではないんですよ。たとえば、徳川家康がこれこれこういうタイミングでこう発言した、これは事実かどうか、なんて話はいちいち相手にしていられない。でも一般の方の関心はそちらにあるのです。
2012-09-16 13:26:42@1059kanri 東国の戦国時代までと、織豊期以降では研究のやり方そのものが違います。前者は、史料をすべて活字化して学界で共有し、その上で議論をする。後者は、自分に必要な史料だけを使って研究する。特に豊臣以後は、史料の全体活字化なんて発想すらない、そういう違いです。
2012-09-16 13:30:07@kurmacf @1059kanri 何故、織豊政権期から活字化をしないのですか?それだと、まともな議論すら出来ないと思うのですが・・・
2012-09-16 13:38:41@1059kanri 史料が多すぎる上に、全国に散在しているからです。秀吉発給文書は、仮目録だけ。五奉行の出した文書すら、集められたことがありません。三成の佐和山支配関係文書くらいかな。豊臣大名についても同様で、ほとんど史料が活字化されていません。これが大きな壁です。
2012-09-16 13:36:06@UJIYASUKYOU @1059kanri 革命的といってもいいほど、史料の数が飛躍的に増えるからです。戦国時代までのやり方が通用しない。ただ、信長に関しては十分対応可能な分量なんですが、研究者が信長自身の出した文書にしか関心を持ちません。ずっと批判し続けている点なのですが。
2012-09-16 13:41:36ついでにいうと、江戸時代に入ると、自分の探した史料で研究する≒他人の使った史料を使うと批判される、という不文律のようなものができています。これもちょっとおかしな慣習なんですが。
2012-09-16 13:44:09@kurmacf @1059kanri しかし、後北条氏の文書は集められてますよね?あれもかなりの量だと聞きましたが・・・?あれは少ないの部類に入るのですか?
2012-09-16 13:42:31@UJIYASUKYOU @1059kanri 北条で5000、武田で4400になります。毛利や秀吉は桁が違ってきます。なので、大変難しい。ただ、平安・鎌倉は全文書の活字化が進められているので、決して不可能ではありません。ようは人手の問題なのです。
2012-09-16 13:48:33@UJIYASUKYOU @1059kanri 中世史の中では、一番人数が多いです。ただ、史料集を作るとなると話は変わってくる。たとえば秀吉文書の場合、仮目録を作った方が現役なので、その人を無視して史料集を作る、なんてことは礼儀上できない。しかしその人が動き出すには高齢すぎる。
2012-09-16 13:57:39平安遺文や鎌倉遺文という形で手に入る限りの全史料を活字化したのは、竹内理三さんの凄い功績で、「誰でも、地方(や所属)に制約されずに」同じ史料を使えるようにしよう、それが学問の発展に必ず寄与するはずだ、という信念に基づいていたのですね。
2012-09-16 14:21:44まあだいたい俗説の出元は江戸時代の軍記・講談なのだが、これであたりがつかないと極めてやっかい。司馬遼太郎が出元の話が結構あるようだ。これはほとんど悪魔の証明になる上に、司馬遼太郎ファンからの反発が凄まじい。そして歴史愛好家のかなりの割合を、司馬遼太郎ファンが占めている。
2012-09-16 14:09:27@kurmacf 俗に言う、司馬遼太郎史観ですね・・・信長や竜馬、土方歳三などはこれが根強い気がします。僕も司馬遼太郎先生は好きですが、それは小説としてだけであり、史観は支持していません。しかし、歴史を年長の人に説明する時に司馬遼太郎史観を論拠にすると納得されてしまうのが現状です
2012-09-16 14:18:30