「ニーズ」に死を:トランプ・マケドニア・DeNAと2017年のメディアについて

2016年、米国ではドナルド・トランプが大統領に選出された背景で「フェイクニュース」騒動があった一方、日本では大企業が無自覚に偽情報を垂れ流していた。「post-truth」化が加速する2017年に求められる価値について、弊誌編集長から、年頭のエディターズ・レター。
「ニーズ」に死を:トランプ・マケドニア・DeNAと2017年のメディアについて
16世紀の錬金術師の実験室を描いた老ブリューゲルの作品「錬金術師」。

マケドニアの若者とゲーム会社

間違いなく2016年を象徴する人物だったドナルド・トランプは、この世には「fact」はないと言い放った。

「fact」はない、あるのはただ「opinion」のみ。というのが彼の言い分だが、トランプの厄介なのは、一概にそれを暴言と切り捨ててしまうわけにもいかないところだ。そこには確かに真実が含まれていたりもする。

ソーシャルメディア上では、誰もそれがファクトかどうかいちいち検証しない。ただ自分のオピニオンをかぶせることさえできれば、流れてくる情報はなんでもいい。トランプに言われるまでもなく、すでにして世の情報消費なんていうものは、とっくにそうなっていたとも言える。トランプは、ただ「それの何が悪い」と開き直ってみせればよかったのだ。

そしてトランプが開いたその扉から、マケドニアやジョージアあたりの若者が大挙して情報空間のなかに流れ込み、アクセス稼ぎ(という名の小遣い稼ぎ)のためのフェイクニュースサイトを乱立させ、トランプ支持者はそれらをむさぼるように消費した。

それが事実であろうとなかろうとお構いなしに、トランプ支持者たちは、トランプを礼賛しヒラリーやオバマを貶める記事を嬉々として楽しみ、マケドニアの若者たちの懐はきっとそれで潤った。広告を出したクライアントだって上々のアクセス数に喜んだことだろう。三方よし。ウィンウィンウィンとは、まさにこのことである。

メディアリテラシーや道徳を云々したところで虚しい。お金がそこで循環し、関わる者はみなハッピーだ(ヒラリーはもちろん頭を抱えたであろうが、彼女はここでは無関係な部外者にすぎない)。ウェブメディアのエコシステムはこうして閉じた系として自己完結していく。

それを対岸の火事と決め込んで、トランプ支持者を情報弱者と見なすのは容易い。が、ここ日本もさして状況が変わらないのは、かのゲーム会社が引き起こした騒動で明らかだ。メディアビジネスをアクセス稼ぎのゲームと見込んでフェイクニュースサイトを乱発する企業は、その動機においても、手法においてもマケドニアの若者たちとなんら変わらない。

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とんだ錬金術

といって、別にけなしているわけではない(褒めてるわけでもないが)。先に言ったように、それがそれ自体として一方的に悪いわけではない。読者も喜ぶ、広告クライアントも喜ぶ、自分たちも儲かる。三方よし。結構じゃないか。件の会社は、わざわざ会長が出てきて「愕然とした」なんて言って謝罪したそうだが、おそらく、本人たちは実際のところ何を謝罪していたのかよくわかっていなかったかもしれない。だって、みんな喜んでるわけだし。何が悪い、ってなもんじゃないのだろうか、実際は。

本当のところ、あの会長は一体何を謝ってたんだろう。デジタルビジネスのネイチャーを考えれば、それはある意味当然の帰結であって、そこに「愕然」とすべきことは何もないはずだ。それに気づかずにこれまで商売してきたのなら「よくそんなのでやってこれたなあ」が普通の感想だろうし、知ってて「愕然」とか言ってるなら「とんだカマトトじゃんか」となる。いずれにせよ、そんな人物が医療スタートアップをやってるとかいうのだから、ITビジネス界隈というのは改めて信用する気になれない。

どちらかというと(と言うよりは完全に)オールドスクールメディアの出身で、デジタル界隈の人間がする「PV」やら「アクセス数」やらの話に長らく辟易してきた経験からすると、彼らのロジックの厄介さは、それがまさに、トランプ/マケドニアの例がそうであるように、そこで生成され消費されるものが、どんなに「ゴミ」であっても「ウィンウィン」が成立してしまうところにある。そして、最も浅はかな連中は「ウィンウィン」であることをもって、それが「善」だと言い張るのだ。

PVやアクセス数の伸びは、その分だけ「消費者が喜んでいる」ことの証であって、それは結果として社会に善をなしていることになる、というのがその論理で、そこで金科玉条のように使われるのが「マーケットのニーズ」という言葉だ。

どんなゴミでも「マーケットのニーズ」に即していれば社会の善となる。とんだ錬金術があったものだ。しかし、いくらニーズがあったところでゴミはゴミだという話は依然としてあるし、マーケットにとっての善がすなわち社会の善とは限らないのも言わずもがなのことだ。「マーケット」は「社会」とイコールではない。そんな当たり前の話が、もはやこの国ではなぜか通じにくい。

「ニーズ」をめぐる茶番

昨年、とんだ茶番劇に遭遇したので紹介しよう。国立の某科学研究所の意見交換会のようなところに呼ばれたのだ。

それは、ありていにいうと国家予算の削減で台所事情が苦しい研究所をなんとかしなきゃという動機からその研究所が主催した会で(とはいえ、誰も表立ってはそうだとは言わないのだ。暗黙のうちに理解してね、ということらしい)、数ある科学研究のなかから「イノヴェイション」の種を見つけ、それをビジネスにきちんと結びつけることで、なんとか生きながらえたい、そのためにまずは「外部の意見」を聞こう、という趣旨だった(と少なくともぼくは理解した)。

「イノヴェイションに関わる外部の意見」が必要になるとお声がかかることの多い「イノヴェイションメディア」(苦笑)の編集長としては、まあ、そんなものに参加してもさして得るものはないと知りつつも、そこで出会う「有識者」の方々に大抵素敵な面白い人がいたりするので、できるだけそういうのには出向くようにしているのだが、そこで、この某研究所の理事長なる方が、実に面白いことを言うのである。要約するとこんな感じだ。

「科学者もこれからはマーケットのニーズというものをよく見て、社会の『ニーズ』に答えるような『イノヴェイション』を生み出さなくてはならない。例えばT社がつくったDVDなんていうのは、まさに日本発のイノヴェイションのいい例で、これなんかはまさに消費者の『もっと映画を観たい』というニーズに的確に答えたものでしょう」

はあ? マジで? 普段はこういう席でも猫をかぶってるのだが、さすがに「んなわけないでしょ」と声を張り上げてしまった。この席には、現在その研究所に籍を置くT社OBの方がおられ、理事長さんは、おそらくその方を持ち上げようと話題を持ち出したに違いなく、場の成り行き上、一座の視線がその方のほうへと向かう。実際、どうだったんですか? DVDって消費者のニーズから生まれたんですか? T社OBの方が答える。

「いや、あれは、ハリウッドからVHSに変わるデジタルの記録媒体をつくるようお達しが来ましてですね…」

わははははは。日本メーカーはハリウッドの使いパシリでしかなかったというわけだ。「日本発のイノヴェイション」が聞いて呆れる。爆笑。さすが国のトップレヴェルの研究機関の意見交換会ともなると一味違う。参加した甲斐があったというものだ。あー楽しかった。

というのは、まったくの嘘で、実際は心底腹を立て、うんざりした気分で会場をあとをしたのだった(やり取りされた会話は事実だ)。

何にうんざりしたかと言えば「イノヴェイションはニーズから生まれる」というちょっと頭を使えばデタラメだとわかりそうな俗信を(日本が誇るべきはずの研究所のお偉いさんが、よもや)信じていること(ちなみに言っておくと「イノヴェイションは勇気から生まれる」というのがぼくらの見解だ)。そして「市場に信任されるものはいいものである」という、これまた、科学をやって来た人ならその嘘がすぐにでも見抜けそうな戯言を、これまた疑おうともせず信じていることである。

見たところ日本の科学界のダサさは総じて「マーケティングがうまく行けば、自分たちもうまく行く」と思い込んでいるところにあるのだが、なるほど、こうした悪しき「ニーズ観」をして女性研究員に割烹着を着せて悦に入ったりするわけだ。納得といえば納得だが、とはいえ、この研究所の名誉のために言っておくと、これが何も特例というわけではない。なにが悲しくなるって、それなりの企業のそれなりのポジションにいるような人でも多かれ少なかれこんなだったりするのだ。

というわけで、さしあたっては、こういうときに使われる「ニーズ」の語は、思考放棄の現れなのだと思った方がいい。「自分じゃ答え出せないから市場に聞いてみろ」「その市場が正当化してくれるなら、それは『いいもの』であるはずだ」と、要は価値判断を人任せにしているだけなのだ。そして、こうした思考形式というか、非思考の形式が常態化すると、結果として「ウィンウィンならなんでもいい」という判断がまかり通ることになる。

「測定できない価値」は幽霊か

しかしながら、さっき書いた通り、これは対岸の火事ではすまない話なのだ。偉そうに意見している場合ではない。自分だって他人事ではない。

日々ウェブサイトを動かし、そのアクセス数を売り物として広告収入で食っているメディアである以上(しかし、こう文章化してみると、なんと哀れな職業なのだろうか)、件のゲーム会社とやってることは、さしてどころか、まったく変わらない。ぼくらが、彼らを見下して嗤うのは目くそ鼻くそを嗤うに等しい。

「人工知能の記事が最近よく読まれてるので、人工知能の記事を増やしていきましょう」みたいな議論は、当然編集部内でもあって、それはそれで一見理のありそうな話にも聞こえるが、それが「人工知能」ならよくて、「猫の動画」や「女性の裸」、つまりは広義の「ポルノ」や、なんなら「でっち上げ」はダメだとする線引きの根拠を見つけるのは、実のところ結構難しい。広告を取るための数字を取るために記事をつくってるだけだろ、と言われたら反論は確かにしづらい。

そして、一旦数字のロジックを受け入れたら歯止めをかけるのは困難なものとなる。数字が取れれば嬉しいし、100,000PVよりも100,001PVの方がいいに決まっている。デジタルが後押しする「数字」の圧力はとめどがない。人工知能の話は、やがて気づかぬうちにポルノやフェイクニュースとなって、メディアはずるずると低きに流れる。

「モラル」や「倫理観」の欠如。確かにそうだろう。しかし、それだけではない。「民主化」がデジタルテクノロジーに内包されたひとつのネイチャーであるなら、「民主化」というもの自体が孕むダウンサイド、すなわちポピュリズムというものをも、それは必然的に孕むのだ。

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弊誌のあるスタッフが「バズ」という現象についてうまいことを言っていた。記事が食べ物だとするなら、いま「読まれる記事」は、とにかく「のどごし勝負」だと言うのだ。栄養価でも、味でもなく、ただひたすら「のどごし」のいいもの。それだけが読まれ、消費されていく。それこそが「バズ」というものの正体であり、まさに、マケドニアの若者たちや件のゲーム会社が見抜いていたことでもあった。factは問題外。ただ自分の愛着や憎悪の依り代になればいい。ただそのためだけの情報。

デジタル化する社会というのは、言うなれば数値化できるものを極大にまで価値化しようとする社会だ。そこでは可視化できたものだけが、価値とされ、見えないものは無価値とされる。数値化できるものは「科学的」であるがゆえに「真」であり、科学的に「真」であることは「善」でもあると強弁したがる経済の論理に、テクノロジーは喜んで手を貸すだろう。なぜなら、現行のデジタルテクノロジーは、経済が求める効率化・合理化をこそを最も得意とするからだ。

けれども、テクノロジーがそれを得意とするからといって、それが自明のものとして社会に益をなすわけでもないことは歴史がさんざん証明してきたことだし、そもそも数値化できるものだけで社会は構成されてはいない。「ニーズ」「ニーズ」と言う輩に限って、実際は金にならない「ニーズ」は無視し続けるものだが、理由は簡単で、現状の数字の原理ではその価値を測定できないからだ。

それにしても、この「数値化できない価値」というものは、もはや都市伝説や幽霊のような存在になりつつある。「数値化できない価値はある」と信じるか、信じないか。信じる者と信じない者の乖離は、ますます広がって、もはや修復不能なほどにまでなっている。

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期待をすること、信じること

ブレグジット、トランプ、そしてDeNA以降の社会のありようを、海外のメディアは秀逸にも「post truth」(ポスト・トゥルース)と名付けた。のどごし勝負の市場原理、すなわちニーズ至上主義と、それをドライヴすることにおいて何にもまして威力を発揮するデジタルテクノロジーが手を組むことによって生み出されたこの奇怪な現象の奇怪さは、それを批判したところで批判がまったく意味をもたないという点にある。

何せ相手は閉じた系のなかでウィンウィンの関係にあるのだ。である以上、その系のなかにいる人間は、外部に耳を貸す義理もなければ義務もない。いや、市場という外部の信任を得ている以上、それは「正義」ですらある。そこでは議論はおろか、対話すら成立しない。

インターネット以降、そしてソーシャル以降、「外部」というものがどんどん失われて行っているようなイヤな感じをずっと抱いてきたが、それが、いよいよ本格的に実体的なものとして姿を表したのが2016年という年だった。

自己充足した閉じた村に住まわされ、ひとつの村を出たとしてもただ自動的にまた別の村のなかに組み込まれてしまうような世界に「外部」はない。村を出て、よその村の誰かと対等な存在として出会うためのコモングラウンドもない。それが安心で十分に満ち足りた世界であるなら「村の外」は必要すらない。

かつてマスメディアというものは、狭い村の外にある世界の存在を明かし、あらゆる村を超えてみんなが共有できる場所や、言葉や、価値を探るものだったように思う。トランプの選挙で旧メディアが全面敗北したというのは、マスメディアが棲み家としてきた、そうした「共有地」を誰も欲していないということを意味しているのだろう。

発した言葉がすぐさま無効化されていく「ポスト真実」の世界では、すべてが虚しく、すべてが堂々めぐりでしかないのはわかっている。それでもあえて、と思うのは、読者や社会というものを信頼し、期待し続けるのがやっぱりパブリッシングというものの本分だと思うからで、そう思っていれば、たとえ人には負け戦にしか見えなくても、やっている方は案外元気でいられるものなのだ。

「ニーズ」という言葉が嫌いなのは、結局のところ、そこになんの「信頼」も「期待」も賭けられていないからなのだろう。


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TEXT BY KEI WAKABAYASHI