朝日新聞書評しなかった本 2011/4-6

カウシック・ラジャン『バイオキャピタル』
 実はあの経済学者のラジャンだと勘違いして読み始めたんだが、絵に描いたようなバカを見た、という思い。今や人の遺伝情報が経済的にも重要になってくるし、それに伴って利権が発生している、というだれでも知っているお話を、くだらないサイエンス・カルチュラルスタディーズの意匠で延々ひきのばしたバカな本。この手の論者の度し難いことは、人間が遺伝情報だけの存在だと思ってること。ぼくの遺伝情報がいくら売られようが、ぼくという個人の生き方には何も関係ないのに、遺伝情報が出回るのが「生の資本化と流通」だって。バーカ。

鹿野嘉昭『藩札の経済学』
 江戸時代の藩札の研究。どのくらい藩札が流通したか、藩札というものの解釈にどんな論争がこれまであったか(藩札は信用貨幣か政府貨幣か)、といった話。著者の結論は、藩札はそれなりに出ていて、鎖国や藩の間の往来制約による地域間のお金流通の制約、金銀の海外流出に伴う貨幣量の減少を補うための地域通貨であり、信用貨幣の一種だ、というもの。また幕末は藩札が乱発されてインフレを招いたという議論に対し、むしろ万延の改鋳や開港に伴う輸出品価格高騰に伴い、(通貨流通量を増やすために)藩札がたくさん刷られた、という議論。著者は日銀の人。現代に適用するなら、いまの日銀も、通貨供給が足りないから政府紙幣だそうぜ、という結論が導かれそうな本なんだけど。道楽的にはおもしろいし、地域通貨への興味からもおもしろいんだが、ちょっと限られた興味の本だと思う。

堀井光俊『「少子化」はリスクか』
 少子化は本当に起きているのか(起きてます)、それについていろんな論者が何を言っているのか、政府がそれにどんな対応をしているか(女性が子供産んでも働きやすい環境を、というやつ)、どんな成果が出ているか(たいしたことない)、という本。各種議論の整理の部分はいいんだが、結論が頭痛モノ。結局、この人は少子化は女性の社会進出で起きた、という結論なわけ。男女共同参画が悪い、と。そしてそれは新自由主義なる代物の要請で、女性を労働力としてこきつかおうという陰謀なのであり、実はこれは全然少子化の解決など考えていないのである、けしからん、というのね。
 ほほう、じゃあどうすればいいの? 著者の結論は、少子化でもいいじゃないか、とのこと。少子化を受け入れた社会づくりを、というわけね。
 でも著者はごまかしているけど、少子化でかまわないなら有効な少子化対策をしていない新自由主義の陰謀は、特に批判すべきものじゃないってことだよね。じゃあこの本は何をいいたいわけ? 逆に新自由主義批判をしたいんなら、むしろ少子化を嘆くべきでその対策として結局女性は家庭から出るな、と言うしかない。でも著者はフェミニズムにいい顔はしたいみたいで、これを主張する思い切りはないようだね。結局主張に一貫性がなくてほめられないのだ。

隠岐さや香『科学アカデミーと有用な科学』
 科学者というのは、かつてはただのモノ好きな好事家でしかなかった。それが国の支援を得て統治のツールとしても取り込まれていったわけだが、その先方がパリの王立科学アカデミーだった。で、政治的に支援を得るためにはそのお題目が必要なんだが、それが有用性、または効用っていうものだったわけだ。つまり、ただのお遊びから、多少なりとも役にたつものという位置づけの変化があって、ということ。そしてその際の「有用」ってなんだったのか、というのがもちろん重要になる。問題としてはおもしろいし、現在の各種の学問支援や文教政策にも関連する。数学、確率、解析学、種痘などがどんな思惑の中で科学に取り込まれていったかという話とか、おもしろい部分も多いんだが、論文がほとんどそのまま本になっているので、あれこれ枝葉を気にしすぎていて、ちょっと最後まできてまとまりきらない感じ。悪い本じゃないんだが……

サルマン・ルシュディ『ムーア人の最後のため息』
 これは、無念な放出。ルシュディの小説は濃いので、流し読みできないんだよね。最初から羊羹の中をかきわけていくような味わい。書評する前に、まったく読み終わらないし、その間に他の本の書評予定が入ってくると絶対に採りあげられない。他の人が拾ってくれることを祈って放出したが、ちょっと無理みたいだ。残念。

塩川 伸明民族浄化・人道的介入・新しい冷戦 冷戦後の国際政治
  著者の塩川は稲葉振一郎がブログでよくほめている人なので、期待して読んだが、非常に不満の残る本だった。本の主張としては単純。ボスニアでもコソヴォでもイラクでもあっちこっちで、何やら民族浄化でマイノリティ虐殺が起こっている、だから人道的介入をしなくては、ということでNATOや米軍が爆撃するのが正当化されている。でも、塩川的には、そういった各種の事件をよく見直してみると、実は民族浄化があったといえるかどうか疑問な面もあり、人道的介入というのに裏の狙いがあって、人道はその口実にすぎなかった可能性もあり、民主化運動というのも実は民族主義もあれば反米もあれば反NATOもあればむかしのしがらみもあればあーだこーだ、よって単純ではありません、白黒単純に割り切れるもんじゃありません、というのを、近年の各地の紛争について論じている。
 が、全編にわたってとにかく、塩川は結局なんだというのをまったく言わない。他人がアレを考えてない、こういう状況に無知とあげあしを取るばかり。じゃあ、そこで指摘されている情報を考慮したうえで、人道的介入という議論は(弱まるにしても)成立するのか? 塩川としては、そのご立派な各種知見をお持ちのうえで、いったいその時点における軍事介入は正当化されると考えるのか? あるいは介入がダメなら他にどんな選択肢が望ましかったのか? それはすべての論考で述べられていない。それでは学者のお遊びでしかない。
 またボスニアへの軍事介入を是とする論者の文を引いて、塩川は「二〇〇四年時点でこんな認識だとは」と嘲笑的に書く。では二〇〇四年時点における、塩川の考える「正しい」認識とはどんなものか? 塩川はそれを明記することなく、見下した口調で相手の不勉強を嘲笑するだけ。その一方で、謙虚なふりをした逃げ口上。民族浄化という用語の定義についても、自分は歴史的な知識が不十分だからこれを論じる資格はないとか書きつつ、民族浄化の類型をあれこれやってみせて、それを論考の一つの核にしている。この人は、こういう物言いが謙虚さだと思っている。でもこれは謙虚さではなく責任逃れの弁明だ。この論文において、民族浄化について十分な知識を持たないという自覚があるなら、そもそもそんな論文を書くべきじゃない。論文の核となる概念について、よく知らないって何?
 よって、ぼくは本書を書評で採り上げる価値はないと考えた。ロールズやウォルツァーをめぐる議論もピンとこない。敢えて擁護するなら、この本はネット上にあげたWIP的な位置づけであって、これらの材料をもとにいずれ本論が書かれ、そこではもう少しまともな立論と塩川なりの結論が記述されるのかもしれない。が、それならその本論が出るまで待つだけのこと。


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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)