刀剣・日本刀の知識を学べる
刀剣の専門サイトです。
「刀剣」は、かつて武器として活躍し、現在では日本のみならず世界中に愛好家が存在する美術品です。日本の戦国時代を舞台にしたアクションゲーム「戦国BASARA」から端を発した刀剣ブームは、名刀である「三日月宗近」や「鶴丸」、「加州清光」「五月雨江」等を擬人化したブラウザゲーム「刀剣乱舞」でさらに火が点き、刀剣が好きな女性を指した「刀剣女子」は「新語・流行語大賞」にもノミネートされました。そして、大正時代を舞台にした和風剣戟奇譚「鬼滅の刃」によって、刀剣に興味を持つ子どもが激増。ゲームや漫画をきっかけとして、新たな刀剣ファンが名刀を観るため博物館に列をなすなど、かつてないほどの賑わいを見せているところです。
知れば知るほど興味が湧いてくる刀剣の世界ですが、情報を探すのが大変という方も多いのではないでしょうか。そんな方に向けて、「刀剣」、「日本刀」、「刀」、「剣」に関する様々な情報をウィキペディアのように網羅し、画像(刀剣イラスト・刀剣写真)や動画を多用して解説しているのが、刀剣の専門サイトである「刀剣ワールド」です。
刀剣ゲームから刀や剣に興味を持ったという初心者の方にも、この専門サイトで刀剣について楽しく学んでいただけます。
「刀剣ワールド」の特徴は、豊富な刀剣写真!日本刀の美しさのひとつである「反り」や「刃文」等もしっかりと鑑賞ができるよう工夫しました。国宝・重要文化財の刀を多数掲載し、実際の博物館のように刀剣に触れ合えます。
また、日本刀の鑑賞以外にも、刀を学べる情報を掲載しています。「最強の日本刀とは」、「日本刀の切れ味」、「日本刀の作り方」、「白鞘と拵の違い」等、刀ファンや剣ファンなら知っておきたい情報にも言及。他にも「刀剣ワールド」では、刀剣ゲームアプリ・刀剣川柳・刀剣キャラクターといったお楽しみや、刀剣展示・刀剣イベントといった刀や剣に出会える情報などをご紹介。
刀剣ファンや歴女の方までご満足いただけるよう刀剣の専門サイト「刀剣ワールド」では、「刀剣」、「日本刀」、「刀」、「剣」に関する様々な情報を発信し続けて参ります。
「刀剣」、「日本刀」、「刀」、「剣」と言えば、皆さんはどのようなことをイメージするのでしょうか?歴史や造形的な美しさ、武器としての機能性の素晴らしさなど、人によってイメージは、様々だと思います。
刀剣の専門サイト 刀剣ワールドの「刀剣の基礎知識」では、刀剣、日本刀、刀、剣を観たことも触れたこともない初めての方にも分かりやすい内容でご紹介。
「刀剣とは何か、日本刀とは何か」といった定義をはじめ、日本刀の種類解説や日本刀の鑑賞方法、日本刀を知る上で外すことのできない「五箇伝」と呼ばれる伝法の歴史や特徴など、刀剣に関する基礎知識をカテゴリ別に分けて解説しているので、初心者の方でも一から学べる日本刀の教科書のようになっています。刀剣の専門サイト 刀剣ワールドの「刀剣の基礎知識」で正しい刀剣の基礎知識を身につけましょう!
「刀剣」とは、刀身を備えた武器の総称のこと。日本では、一般的に片側に刃が付いた刃物を「刀」、両側に刃が付いた刃物を「剣」として区別しています。日本で作刀された刀剣は、大きさや形状によって様々な名称が付けられているのが特徴。「太刀」(たち)、「打刀」(うちがたな)、「脇差」(わきざし)、「短刀」(たんとう)、「槍」(やり)、「剣」(つるぎ/けん)、「薙刀」(なぎなた)、「鉾」(ほこ)などがその代表で、これらすべてを指して「刀剣」と呼ぶのです。
「刀身」(とうしん)とは、刀剣の本体のこと。刀身の各部位には固有の名称があるため、ここでは代表的な部位の名称をご紹介します。
部位名称 | 特徴・役割 |
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①上身 (かみ) |
刀身のなかでも、区(まち:カギ形にくぼんでいる部位)から鋒/切先までの区間で、茎を除いた部分のこと。鞘(さや)を装着する部位であり、「刃長」(はちょう:刃の長さ)は上身の長さを指す。 |
②茎 (なかご) |
刀身のなかでも、区から茎尻(なかごじり:茎の先端部)までの区間のこと。柄(つか)を装着する部位で、形状によって様々な名称がある。 |
③鋒/切先 (きっさき) |
上身の先端部のこと。大きさによって様々な名称がある。 |
④刃先 (はさき) |
上身のなかでも、実際に物を切ることができる部位のこと。 |
⑤棟 (むね) |
刃先と反対側にある、物を切ることができない部位のこと。 |
⑥刃区 (はまち) |
上身と茎の境目にある、刃先側の区のこと。 |
⑦棟区 (むねまち) |
上身と茎の境目にある、棟側の区のこと。 |
⑧目釘穴 (めくぎあな) |
茎と柄を固定する留め具「目釘」(めくぎ)を挿すための穴。刀剣によって穴の数は異なる。 |
⑨銘 (めい) |
茎に入れられる文字などの総称。一般的にその刀剣を制作した刀工(とうこう:刀鍛冶)の名称や刀剣の所有者、制作された年代などが入れられる。銘がない刀剣は「無銘」(むめい)と呼ばれる。 |
刀剣は、刀身だけでは持ち運ぶことができません。そこで使用されるのが「拵」(こしらえ)と呼ばれる外装です。拵を構成するのは主に「鞘」、「柄」、「鍔」(つば)の3つが挙げられ、それぞれに役割があります。
部位名称 | 特徴・役割 |
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①鞘 (さや) |
上身を納める外装のこと。刀身を保護する役割を持ち、制作された時代や注文者によって様々な装飾が施された。 |
②柄 (つか) |
茎を納める外装のこと。刀剣を手で握る際に不可欠となる保護具で、柄に施される「鮫皮」(さめがわ:柄の強度を上げるための素材)や「柄巻き」(つかまき:柄に巻く革や紐などの総称)は、刀剣の美術的価値を一層高める要素となっている。 |
③鍔 (つば) |
鞘と柄の間に挟む金具のこと。刀剣を扱う際に、手が柄から滑って負傷することを防ぐ役割を持つ。その表面には技巧を凝らした様々な装飾が施されることが多く、独立した美術工芸品として世界中に愛好家が存在する。 |
刀剣は、もともと武器以外にも儀式などで使用される神聖な刃物でした。また、権力者は拵に豪華な装飾を施すことで、自身の権力を主張していたと言われています。日本の戦場で刀剣が使用されはじめたのは古墳時代からで、地位の高い武士は常に刀剣を所持して戦場へ赴きましたが、じつは刀剣が主要な武器になることは、幕末時代までありませんでした。
戦場における主要武器は、槍や弓矢であり、刀剣は槍や弓矢が使用できなくなったときに使う補助武器に過ぎなかったのです。その一方で、刀剣は褒美として大名から家臣へ贈られた他、家臣から大名や権力者への献上品として使用され続けました。それは、刀剣が当時から刀身そのものの美しさに加えて、拵なども含めて「美術品」としての価値が非常に高かったからです。
天下人である「豊臣秀吉」は、天下を泰平した後に「刀狩り」を行なったことで知られています。刀狩りは、武士階級と農民・百姓などを身分的に分離する「兵農分離」(へいのうぶんり)の一環として行なわれたと言われていますが、じつは豊臣秀吉は刀剣愛好家であったため、刀狩りと称して価値の高い刀剣を収集する目的もあったと言われているのです。
平和な江戸時代になると、刀剣はますます武器としてではなく、美術的価値を持つ存在として認識されるようになりました。多くの武士は、実用性よりも装飾性や見た目の美しさを追求し、目貫(めぬき:柄に施す装飾品)や鍔の意匠にこだわって、自身の家柄や存在をアピールするようになったのです。一方で、この当時の刀剣はまだ武器としての役割を持っていたため、屋敷へ上がる際は刀剣を相手に預けた他、道で相手の刀剣と接触しないように必ず左側の帯へ刀剣を差して、左側通行をするなど、細かなルールが設けられていました。
その後、武器としての刀剣に最大の危機が訪れます。それは、1946年(昭和21年)太平洋戦争が終結した後のこと。終戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって行なわれたのが「昭和の刀狩り」と呼ばれる占領政策です。狩猟用や射撃競技用以外の銃器類、及び美術品以外の刀剣の所持を禁止されたことで、およそ300万の刀剣類が没収されたと言われており、そのなかには「名刀」として名高い刀剣も数多く含まれていたと言われています。
多くの刀剣が燃やされたり、海へ破棄されたりするなかで、刀剣を守るために「刀剣は武器にあらず」と主張し、文化財保護の観点から立ち向かった人びとがいました。その人たちの尽力によって、刀剣は武器ではなく、美術工芸品として製造・所持が許可されるようになり、無事だった刀剣はもとの所有者のもとへ還されたのです。
美術工芸品と見なされるようになった刀剣ですが、実際には物を切ることができる刃物であるため、現代においては「登録証」がなければ所持することも、購入することもできません。登録証とは「銃砲刀剣類登録証」のことです。これがなければ「銃砲刀剣類所持等取締法」(以下、銃刀法)第14条の「美術品もしくは骨とう品として価値のある火縄式銃砲等の古式銃砲または美術品として価値のある刀剣類の登録をするものとする」と言う文言に反することになり、逮捕される恐れもあります。
なお、同じ刃物であっても調理に使用する包丁やDIYなどに使用するナイフなどは「銃砲刀剣類登録証」の交付を受けなくても所持や購入が可能です。その理由は、刀剣と包丁・ナイフの用途の違い。
刀剣は、もともと殺傷能力が高い武器です。一方で、包丁・ナイフのような「刃物」はあくまでも日常的に使う道具であるため、他者に危害を加える危険物ではないと考えられています。そのため、刀剣と包丁・ナイフは扱いが異なっているのです。
一方で、包丁やナイフなどを携帯する際には「正当な理由」が必要となります。例えば、買った後自宅へ持ち帰る場合や、調理人が自分の刃物を仕事場へ持っていく場合などです。「自分の身を守るため」として護身用に携帯することは「正当な理由」とは見なされないため、たとえ他者へ危害を加える意思がなくとも、包丁やナイフをみだりに持ち歩くと「銃刀法違反」となり、逮捕される恐れが出てくるため、注意が必要です。
刀剣は、「切れ味」と「出来栄え」、それぞれの観点から「格付け」することができます。「出来栄え」の観点から見た「格付け」で用いられるのが「折紙」(おりがみ)です。一般に「折紙」と聞いて連想されるのは、工作用のカラフルな紙ですが、刀剣業界で「折紙」と言えば「刀剣鑑定書」のことを指します。
「折紙」は、刀剣鑑定家の一族「本阿弥家」(ほんあみけ)が、「豊臣秀吉」から許可を得て発行した「正真保証」の鑑定書です。慣用句の「折り紙付き」の語源として知られており、一枚の紙の片面に「刀剣の銘」や「寸法」、「刀身の特徴」などを書き、それを二つ折りにしたことが言葉の由来と言われています。
豊臣秀吉が本阿弥家に折紙を発行させた理由としては、正真保証ではなく、その刀剣に「価値」を与えるためでした。当時、家臣への恩賞として与えられていたのは土地です。しかし、土地には限りがあります。そのため、豊臣秀吉は刀剣に土地と匹敵するほどの価値を与えることで、土地が不足することを回避しただけではなく、刀剣を受け取った家臣も満足できるように工夫したのです。
また、折紙は武士の魂である刀剣に付属する大切な鑑定書であるため、発行するにも厳しいルールが設けられていました。本阿弥家は、本家の他に12の分家が存在します。そして、折紙を発行するのは毎月3日の日と定められていました。「3日」と言うのがどこから来たかと言うと、本阿弥家の始祖「本阿弥妙本」(ほんあみみょうほん)の命日が4月3日だったため。分家の人びとが集まる3日に、合議を行い、そして折紙を発行したのです。折紙が発行された日付を見ると、すべて3日付けになっているのが分かります。
発行に際するルールはこの他にも様々。例えば、鑑定する刀剣に銘が入っている場合。その銘が間違いなく本物であると認めた場合に限り「正真」の文字を書き入れて、折紙を発行しました。
また、折紙に記載する「月」の書き方にもルールがあります。3月、4月、11月、12月を除く月は、一般的な漢数字の「一月」や「二月」で記載されていますが、3月は「弥生」、4月は「卯月」、11月は「霜月」、12月は「極月」(ごくげつ:12月の呼び名)と、4つの月に限っては漢数字が用いられませんでした。3月と4月は、「三」は「身を切る」、「四」は「死」など、縁起が悪いことを連想させるために用いられなかったと言われています。11月と12月は、漢数字にすると「十一月」、「十二月」と文字数が多くなるため、漢数字は使用されませんでした。
著名な名刀には「名物」(めいぶつ)と言う肩書きが付いていることがあります。「名物」とは、「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)と呼ばれる、名刀を一覧にした台帳に掲載されている刀剣のこと。「享保名物帳」は、室町時代の頃から刀剣の手入れなどを行っていた本阿弥家が、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」に命じられて編纂した刀帳です。本阿弥家は永い歴史のなかで、膨大な数の名刀の資料を所有していたため、「享保名物帳」を編纂する際も、それらの資料を参考にして享保名物帳を完成させたと言われています。
享保名物帳は、上巻・中巻・下巻の3巻で構成されているのが特徴。収録されているのは、現在も御物(ぎょぶつ:皇室の私有品)として管理されている皇后陛下の枕刀「平野藤四郎」(ひらのとうしろう)、「織田信長」や「豊臣秀吉」、「徳川家康」などの天下人から求められた「義元左文字/宗三左文字」(よしもとさもんじ/そうざさもんじ)、「にっかり」と笑う女の幽霊を斬ったと言う「にっかり青江」(にっかりあおえ)、その切れ味の鋭さで敵の籠手(こて)まで斬ったと言う逸話を持つ「篭手切江」(こてぎりごう)など、徳川将軍家が所蔵していた刀剣を中心とした274振の名刀。このうち、編纂時の段階で火災などによって失われていたのは81振。また、後世になって紛失した刀剣もありますが、多くは現存しています。
享保名物帳に掲載されている刀剣のうち、最も掲載作数が多い刀工は「正宗」です。「正宗」は、世界的にも著名な刀工として知られており、享保名物帳には焼失した作を含めて59振が掲載されています。
次いで掲載作数が多いのは、「短刀の名手」として名高い刀工「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)。焼失した作を含めて34振が掲載されています。また、「郷(ごう)とおばけは見たことがない」と言う言葉で知られている刀工「郷義弘」(ごうよしひろ)は、焼失した作を含めて22振が掲載されており、「正宗」、「粟田口吉光」、「郷義弘」の3名は「名物三作/天下三作」(めいぶつさんさく/てんがさんさく)と呼ばれ、豊臣秀吉をはじめとした愛刀家たちから珍重されました。
なお、享保名物帳に掲載されていない(名物ではない)刀剣は名刀ではないかと言うと、決してそのようなことはありません。一説によると、大名家の名刀が享保名物帳に掲載されたことがきっかけで、徳川将軍家に家宝の名刀を召し上げられた事例があったため、多くの大名が享保名物帳への掲載を拒否したと言います。そのため、たとえ「名物」でなくとも、今なお名刀として人びとを魅了する刀剣は全国に数多く存在するのです。
刀剣を鑑賞したり、学んだりするうえで最も良い方法は、実際に刀剣を手に持って刀身を観察することですが、それはなかなか難しいと言われています。なぜなら、自分で刀剣を購入したり、鑑賞会などのイベントに参加したりする必要があるため。ある程度であれば写真だけでも、部位や特徴を見たり、知ったりすることもできますが、刀剣鑑賞における最大の見どころである「刃文」は、どれほど高画質の写真であっても、そのすべてを確認することはできません。
そこで活躍するのが「押形」(おしがた)です。「押形」とは、「刀剣押形」とも呼ばれる、刀剣の形を紙に押し当てて書き写し、刀身に表れる刃文を精密に写生した記録資料のこと。押形は、写真では捉えきれない実際の刃文をそのまま描写してあるのが特徴。カメラがなかった時代においては、権力者が自身の愛刀を人びとへ知らしめるために、数多くの押形が制作されましたが、それらの押形は現代において、焼失・紛失した名刀の詳細を知るための貴重な資料と見なされるようになりました。
なお、古い時代の押形は、描き出す道具として毛筆と墨が使用されていたため、「写し物」や「絵図」、「絵形」などと呼ばれていたと言います。また、毛筆では姿・刃文共に精密な描写をするのは非常に難しかったため、当時制作された押形は、後世の押形と比較するとかなり大雑把な出来となっているのが特徴。
押形が精密になるのは、明治時代に入ってからです。鉛筆が使用されるようになったため、より正確な描写が可能になりました。その一方で、押形を制作するにあたっては、精密に刃文を見極める鑑識眼、及び紙へ正確に描き写す技量が求められたため、押形の制作は明治時代であってもごく限られた職人などにしかできなかったと言います。
押形は現代でも、刀剣研究や鑑定の資料などに広く利用されているため、刀剣を扱ったインターネットサイトや書籍など、様々な場所で見ることが可能です。
「日本刀」とは、主として日本独自の鍛造法で制作された、「反り」(そり)があり、刀身の片側に刃を持つ刀剣類を指します。平安時代の中期に登場して以降、日本における刀剣の主流となりました。
日本刀の素材には、「玉鋼」(たまはがね)と呼ばれる、特殊な鋼が用いられています。玉鋼とは「たたら製鉄」という日本独自の製鉄法により制作される、不純物の含有量が圧倒的に低い最上質の鋼です。炭素などの不純物が少ない鋼は、叩いて延ばしたり焼を入れることで耐久性を高めたりできることから、日本刀の素材として用いられるようになりました。
たたら製鉄には主に2種類の方法があり、玉鋼はその内のひとつ「鉧押し法」(けらおしほう)で制作されます。鉧(けら)とは、真砂砂鉄(まささてつ)を原料として生成される、炭素の含有量が少なく、溶けにくいスポンジ状の鉄素材のこと。玉鋼はこの鉧を砕くことで手に入れることができます。
鉧押し法は1度開始すると3日3晩休まず操業させることから、「3日押し」とも呼ばれる方法。本床(ほんどこ)の中に原料の砂鉄と燃料の木炭を入れ、鞴(ふいご)を動かすことで送風し、加熱させることで砂鉄に含まれる炭素量の割合を調節していくのです。
また、およそ70時間かけて作られる玉鋼の量は、1度にごく僅か。原料に10tの砂鉄を用いた場合、たたら製鉄で手に入れることができる玉鋼は1/10となる1tほど。現在このたたら製鉄を行なっているのは島根県仁多郡奥出雲町にある「日刀保たたら」のみで、年に3回操業されてできる3tの玉鋼が全国の刀匠の元に届けられるのです。
外国の刀剣類とは一線を画した独自の鍛造法で制作される日本刀の制作工程は、日本刀を定義付ける上で最も重要な役割を担っています。
これは「折り返し鍛錬」(おりかえしたんれん)と呼ばれる手法で、この折り返し鍛錬により鍛えられた刀身の造りは、日本刀最大の特徴。折り返し鍛錬は、元は鋼を槌で叩き鍛える工程のことを指すものですが、近年では日本刀の制作工程を指す言葉としても用いられるようになりました。
刀匠は、たたらで制作された玉鋼が届けられると、まず玉鋼を炭素量に応じて分別し、テコの上に積み重ねていく作業を行います。これは水へしや小割(こわり)、積み沸しと呼ばれる工程で、テコの上に重ねられた鋼を加熱し鍛着させることで、折り返し鍛錬の前準備が完了。
次に、鉱滓(こうさい)や炭素などの不純物を叩き出していく折り返し鍛錬を行います。鍛錬では不純物を取り除くことができる他、鋼中の炭素量が均一化され、より強靱で洗練された鋼を作り出すことが可能となるのです。叩いて鋼を長方形に延ばし、中心に鏨(たがね)で切り込みを入れ、折り返していきます。
鋼は何度も折り返すことで硬く、粘り気のある鋼に変化していきますが、多すぎても良いということはありません。このときの玉鋼の最適な状態を見極めるのも刀匠の重要な仕事となっているのです。
良質な 玉鋼から作られる刀身であっても、硬いばかりでは折れやすく、逆にやわらかすぎれば曲がってしまいます。そこで、折り返し鍛錬では2種類の鋼を制作。この工程は造込みと呼ばれる作業で、柔軟性のある玉鋼を「心鉄」(しんがね)として、その外側を覆うように硬い玉鋼である「皮鉄」(かわがね)を組み合わせることで、「折れず、曲がらず、よく切れる」という日本刀ならではの優れた特性を実現させたのです。
このとき、心鉄は7~10回、皮鉄は15回ほど折り返し鍛錬を行なうのが一般的。なお、日本刀の地鉄に現れる独特な模様も、この折り返し鍛錬によって決められるのです。
折り返し鍛錬が終わると、玉鋼を打ち延ばして日本刀の形に成形する素延べ(すのべ)を行ない、その後、鎬造りや平造りなどの造込みを決定します。この工程は「火造り」と呼ばれ、身幅や重ねの厚さなど、刀身の特徴などを決める作業でもあるのです。
次に、「緩んだ気持ちを引き締めさせる」という意味の慣用句にもなっている、「焼入れ」の工程に入ります。焼刃土(やきばつち)を作って刀に塗る土置きを行なった後、刀身を800℃ほどに加熱させ、水に入れて一気に冷却させます。
この焼入れの工程では、日本刀の特徴となる反りが出現。また、日本刀特有の美しさを体現する刃文が現れるのも焼入れの工程で、焼きの温度によって「沸出来」(にえでき)か「匂出来」(においでき)かが決められるのです。
最後に刀匠が荒研ぎし、茎(なかご)を整えたのち、美しい滑らかな刀身とする研師や鎺(はばき)などの金具を制作する白銀師(しろがねし)、鞘師などの職人の手に渡り、日本刀は完成となります。
日本刀の特徴は、固有の制作工程の他、その形状に特徴を見ることができます。日本刀の多くは「鎬造り」ですが、これは刀身の表裏両面を縦に通る稜線の「鎬」が、やや棟(むね)側に寄った形状のこと。
さらに、片側に刃を持つ刀身と、手で握るための「柄」(つか)に納められる「茎」(なかご)が、ひと続きの構造となっているのも特徴的です。
そして、「反り」を付けることで、刀は素早く「鞘」(さや)から抜き放つことができ、相手に斬り付ける瞬間には、振り下ろす動作自体で、自然に引き切ることができるようになりました。日本刀の反りは、無理なく最大限の効果が得られるという点で、力学的にも理に適っていると言えます。
銘とは、日本刀の制作者が自身の名前や制作年などを記したもの。銘は鏨(たがね)と槌を使って彫刻し、必ず茎の外側に入れられます。刀工が日本刀を制作する最後の工程として銘入れを行いますが、銘入れを行わなかった場合は、「本阿弥家」をはじめとする日本刀鑑定家などの手により、あとから「金象嵌」などで銘を入れられることもあるのです。
日本刀には、表と裏が存在。日本刀の表裏は種類によって反転し、太刀の場合は刃を下にして佩刀することから、体の外側になる方が表、内側に当たるのが裏となります。刀の場合は刃を上に向けて帯刀することから、表裏が太刀と逆転するのです。日本刀の表に入れられる銘を「表銘」(おもてめい)と言い、裏側に入れられた銘は「裏銘」(うらめい)と言います。
銘には様々な種類が存在し、表銘には主に刀工の名前である「作者銘」や作者の生国や居住地を表す銘、朝廷や幕府から与えられた国司名を表す「受領銘」(ずりょうめい)など、刀工を表す情報が入れられ、真贋を判定する上で重要なポイントとなるのです。ただし例外もあり、太刀の場合は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて活躍した刀工「豊後国行平」(ぶんごのくにゆきひら)や同時代に備前国(現在の岡山県)で活躍した刀工一派である「古青江派」、刀の場合は慶長新刀を代表する「肥前国忠吉」(ひぜんのくにただよし)一門や「山城守国清」(やましろのかみくにきよ)などの刀工は、作者銘を裏側に入れました。
裏銘には主に制作された年月を表す「紀年銘」(きねんめい)や、所持者の名前を施した「所持銘」、切れ味を記した「截断銘」(さいだんめい)などが入れられます。なお、裏銘には紀年銘が入れられていることが多いため、紀年銘を単に裏銘と呼ぶ場合も。古い時代には作者銘が2字で入れられるのみであったことがほとんどでしたが、時代が下るにつれて、居住地などの刀工の情報や、所持銘が加えられるようになりました。
日本刀の「号」とは、銘の他に付けられた、日本刀の固有の呼び名を指す言葉です。号は、日本刀独自の通称やニックネームを表すものとも言え、それぞれの日本刀にまつわる来歴や逸話などを元に付けられています。すべての日本刀に号が付けられているわけではなく、切れ味のすさまじいものや、姿の優れているもの、所有者が特に重宝とする日本刀などに号が付けられました。
号の付いた日本刀で著名なものは、平安時代に制作され、能の演目にもなった「小狐丸」や、「織田信長」の愛刀である「へし切長谷部」、「伊達政宗」が「豊臣秀吉」から下賜された「燭台切光忠」、「徳川家康」の懐刀である「物吉貞宗」など、号を付けられ、所有者から愛された日本刀は数多く存在します。これらの号が付けられた日本刀の由来を見ていきましょう。
「小狐丸」は、平安時代に山城国(現在の京都府)で活躍した刀工「三条宗近」(さんじょうむねちか)によって鍛えられた、能の演目のひとつである「小鍛冶」(こかじ)に登場する伝説の日本刀です。
号の命名はこの演目に由来し、話の内容は、66代天皇である「一条天皇」より三条宗近が作刀を依頼されるところからはじまります。三条宗近は天皇陛下直々の注文に応えられる日本刀を制作するのにふさわしい「相槌」(あいづち)を打つことができる弟子がいないため、一度は断りを入れようと考えました。
しかし、一世一代の大仕事となる天皇陛下直々の注文が大成できるよう、三条宗近が近所の「稲荷神社」に祈願すると、夜に稲荷大明神の化身が現れ、相槌を打ったことから、出来上がった日本刀は、相槌を打った稲荷大明神にあやかり「小狐丸」と号されるようになったのです。
現在本太刀は、伝説上の日本刀であるという見解が強くありますが、同名の日本刀が「石上神宮」(奈良県天理市)や「石切剣箭神社」(大阪府東大阪市)などに奉納されています。
「へし切長谷部」は、「正宗十哲」のひとりで、南北朝時代から室町時代前期に山城国で活躍した刀工「長谷部国重」(はせべくにしげ)の手による日本刀です。織田信長の愛刀として知られますが、「中国攻め」の褒賞として「黒田孝高」(くろだよしたか:黒田官兵衛とも)に下賜され、以降黒田家の重宝となり、現在は「福岡市博物館」(福岡県福岡市)に所蔵されています。
「へし切」の号の由来は、織田信長の佩刀であった際に名付けられたもの。あるとき、失敗を犯した茶坊主を織田信長が、茶坊主が隠れた棚ごとへし切長谷部を用いて「圧し切った」ことから、その切れ味に感銘を受け、命名されました。
刀は本来、刃を手前に引くことにより対象を斬ることができる武器ですが、へし切長谷部は刀を圧し当てただけで棚と人間を斬ることができたことから、その切れ味の鋭さを窺い知ることができます。
「燭台切光忠」は、奥州(現在の東北地方)の独眼竜として知られる伊達政宗の愛刀である日本刀。鎌倉時代中期に備前国(現在の岡山県)で活躍し、「長船派」の祖として名高い刀工「光忠」の手による作品です。本刀は元々、光忠の日本刀を蒐集していた織田信長の手にあったとされ、織田信長の死後に豊臣秀吉に渡りましたが、その後伊達政宗が拝領しました。美しい日本刀であったことから、下賜するのが惜しくなった豊臣秀吉は、ふざけて伊達政宗を盗人として捕り物をさせたという記述が残っています。
達家で重宝とされましたが、その後、水戸徳川家へ渡り、1923年(大正12年)に起こった「明暦の大火」の被害に遭いました。現在は「徳川ミュージアム」(茨城県水戸市)に所蔵されています。
「燭台切」の号は、伊達政宗によって命名されたとする説が一般的です。あるとき粗相を犯した家臣を、伊達政宗が燭台切光忠を用いて手打ちにした際に、そばにあった燭台まで共に斬れたという話が由来。共に斬れた燭台が青銅製のものであったことから、鋭い切れ味を称え、号を付けたとされています。
「物吉貞宗」は、正宗十哲のひとりで、鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した刀工「貞宗」(さだむね)の手による短刀です。作者の貞宗は、相州伝を確立した「正宗」の実子、もしくは弟子とされる名工で、本短刀を含めた現存する貞宗作の日本刀は、すべて無銘の極めとされます。
徳川家康の懐刀として知られており、死後は尾張徳川家初代藩主「徳川義直」(とくがわよしなお)に相続され、以降尾張徳川家に伝来。尾張徳川家歴代藩主は、将軍と謁見する際は、神君・徳川家康とゆかりの深い本短刀を帯びていたと伝えられています。現在は「徳川美術館」(愛知県名古屋市)が所蔵。
号の「物吉」(ものよし)とは、「めでたいこと」や「縁起が良い」ことを表す言葉です。この号の由来は、徳川家康が物吉貞宗を帯刀して戦に臨むと、必ず勝利を収めたことから付けられたとされます。
日本においては、しばしば刀と日本刀は同一視されますが、刀には刃長に規定があり、まったく同じではありません。
時代劇などで見られるような、武士が腰に差している大小2振のうち長い方が刀で、刃長は2尺(約60.6cm)以上と決められていました。この刃を上に向けて腰に差す様式の刀は「打刀」(うちがたな)と呼ばれ、日本の刀と言えば、おおむね打刀のことを指しているのです。打刀、つまり刀は、日本刀という大きなカテゴリに含まれる1種類と言えます。
刀(打刀)が日本の歴史に登場したのは室町時代後期の戦国時代。それまで刀剣の主流を占めていたのは、刃を下に向けて腰に佩く(はく)種類の「太刀」でした。太刀を腰に佩いたとき、身体の外側になる面を「佩表」(はきおもて)と呼び、太刀の制作者である刀工の銘は、ほとんどが佩表にあたる茎(なかご)の面に切られているのです。
一方、刀は刃を上に向けて帯に差し、これを帯刀と言います。太刀と同じく、帯刀したときに身体の外側になる面が表の「差表」(さしおもて)です。作刀した刀工の銘は差表側に入れられました。
太刀も刀と同様に刃長が2尺(約60.6cm)以上と規定されていますので、長さを見ただけでは太刀と刀の区別は付きません。そこで、太刀と刀を見分ける方法のひとつとして、佩表と差表のどちらに銘が切られているのか確認することが挙げられるのです。
また、博物館などで展示される場合、太刀は刃を下向きに置き、刀は刃を上向きに置くことになっており、ほぼ例外はありません。
このように太刀と刀で形状に違いが見られるようになった理由は、戦国時代に戦い方が変化したことにあります。太刀の形式が確立した平安時代後期、戦闘様式の主流は馬に乗って戦う「騎馬戦」でした。馬上から、やや離れた敵に斬り付けるために太刀は刀身が長く、さらに馬上で素早く抜けるよう、反りが深くなっているのです。そして、腰帯から吊るした状態で佩くため、鞘の先端部分にあたる「鐺」(こじり)が馬のお尻に当たってしまうこともありません。
ところが、戦国時代となり大規模な集団戦が多くなると、戦闘様式は地上において徒歩で戦う「徒戦」(かちいくさ)が主流となります。徒戦では目の前の敵と戦う接近戦になるため、窮屈な体勢でも素早く鞘から刀身を抜く必要がありました。そのため、太刀に比べて反りが浅く、刀身も短い刀が登場。戦場で操作しやすい刀は、太刀に取って代わり主要な刀剣となったのです。
戦国時代に刀剣の主流として武士の間に普及した刀(打刀)は、江戸時代には「脇差」を併せての大小帯刀が武士の正装となります。
さらに徳川幕府は、持ち主の身分により刀の寸法を規定しました。3代将軍「徳川家光」の時代までは、武士や剣術の修行者なら、2尺3寸(約69.7cm)以下、4代将軍「徳川家綱」以降は、2尺2寸8分(約69.0cm)以下と規定。それ以外に帯刀を許された神職や武家奉公人などの身分の者は、2尺2寸3分(約67.5cm)までとされています。当時、帯刀が可能であった武士以外の者には、公家貴族をはじめ、虚無僧や大関以上の力士、大道芸などの芸能興行者も含まれていました。
しかし、5代将軍「徳川綱吉」の治世になると、日本刀の大小帯刀は武士に限ると厳格に決められたのです。この決定により、どの長さの刀であっても一般庶民が持つことは許されなくなり、日本刀の大小帯刀は武士の象徴となります。
ただし、大小2振の短い方である「脇差」は、町人などの身分でも、旅をする場合などには護身用として携行が許されていました。脇差の刃長は1~2尺(約30.3~60.6cm)。1尺(30.3cm)より短いタイプは「短刀」です。なお、短刀には子どもや女性が持つ「懐剣」(かいけん)も含まれ、これらは武士でなくとも「守り刀」として所持することが認められていました。
江戸時代には武士の象徴となった刀ですが、1637年(寛永14年)に起こった「島原の乱」が終結して以降、平和な時代が続くと刀姿に変化が表れます。寛文年間(1661~1673年)頃には、剣術の稽古が竹刀(しない)中心となった影響もあり、竹刀に似た反りの少ない、鋒/切先(きっさき)の詰まる(短い)刀が求められるようになりました。この刀を「寛文新刀」と呼び、江戸時代の代表的な刀と言われています。
他方、商業の中心地であった大坂(現在の大阪府)にも近郊から優れた刀工が集まり、地鉄(じがね)の美しさで他の追随を許さない刀を生み出しました。これが「大坂新刀」であり、江戸を拠点とする刀工の作品とは一線を画す刀として名を残しています。
その後、元禄年間(1688~1704年)以降の太平の世では、需要が落ち込み一度は衰退の危機に陥った作刀の文化でしたが、幕末の動乱期には武器として見直されることとなりました。
尊王攘夷派(天皇を敬い外国の敵を撃退しようとする一派)の志士には、「勤皇刀」(きんのうとう:または勤王刀)と呼ばれる3寸(約90.9cm)前後の長寸で反りが浅い刀が求められ、一方の佐幕派(幕府を擁護する勢力)である「新選組」の隊士達も長寸の刀を用いるようになったことから、刀の需要が高まったのです。
「刀」を手掛けた江戸時代の著名な刀工として、伊勢国桑名郡(現在の三重県桑名市)で活躍した「村正」(むらまさ)や、将軍のお膝元である江戸を拠点とした「江戸新刀」の名工「越前康継」(えちぜんやすつぐ)、「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)などが挙げられます。
「村正」は「千子村正」(せんご/せんじむらまさ)を祖とする一派で、徳川将軍家に災いをもたらすという「妖刀伝説」でも有名になりました。
これは、後世に創作された伝説に過ぎなかったのですが、優れた切れ味や覇気みなぎる刀姿が「妖しい魅力を持つ刀」と称賛され、妖刀伝説に真実味を与えたのではないかと言われています。
「越前康継」は、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」が起こった年に、「徳川家康」の次男である「結城秀康」(ゆうきひでやす)に召し抱えられた刀工です。
のちに、刀工としての腕前を高く評価した結城秀康の口添えにより、徳川家康と2代将軍「徳川秀忠」に仕えることとなり、越前国(現在の福井県北東部)から江戸へ移り住みました。
徳川家康からも認められた越前康継は、「康」の一文字を賜り、さらに作品の茎(なかご)に「葵の御紋」を入れることを許されたのです。江戸時代初期における越前康継の功績は大きく、「江戸新刀」の開祖と考えられるようになりました。
もともと甲冑師であった「長曽祢虎徹」は、50歳を超えてから江戸へ出て刀工に転向したという異色の経歴の持ち主です。近江国佐和山城下(現在の滋賀県彦根市)に生まれ、「関ヶ原の戦い」の戦火を避けるために父に連れられて越前国へ逃れ、のちに甲冑師になったと伝えられています。ところが江戸時代になり世の中が落ち着くにつれ甲冑(鎧兜)の需要は激減。そこで刀工として身を立てることになったのです。
江戸では、類まれな切れ味と見事な刀身彫刻で人気を博し、刀工界を牽引。人気を得て知名度が上がったことから、長曽祢虎徹の銘を偽造する刀工まで現れます。偽物があまりに数多く出回ったため、「虎徹を見たら偽物と思え」とまで言われるようになりました。
寛文新刀らしい作品を残した刀工としては、「法城寺正弘」(ほうじょうじまさひろ)が有名です。法城寺正弘は但馬国(現在の兵庫県北部)「法城寺派」の末裔であり、一門と共に江戸へ移ると「江戸法城寺派」を創始。江戸幕府からの鍛冶に関する業務一切を担い、勢力を伸ばしました。
明治維新を経た1876年(明治9年)、軍人や警察官など一部を除き全面的に帯刀禁止とする「廃刀令」が発布されます。かつての武士であった士族も刀を帯びることができなくなったのです。「文明開化」の時勢の中で、日本刀は用いられることがなくなり、刀が武器として重用される時代は終わりを告げました。
その後、1890年(明治23年)10月に「帝室技芸員」の制度が発足。「帝室技芸員」とは、日本美術・工芸の保護を奨励する目的で任命された優秀な美術家や工芸家を指し、1906年(明治39年)には、刀工として初めて「宮本包則」(みやもとかねのり)と「月山貞一」(がっさんさだかず)の2名が選ばれます。これは、刀が美術品として認められ、高く評価されるようになったことを意味しているのです。
「宮本包則」は1830年(天保元年)8月に伯耆国(現在の鳥取県中西部)で誕生。伯耆国が生んだ古刀時代の名工「安綱」(やすつな)に憧れ、22歳のときに備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市)へ赴き刀匠「横山祐包」(よこやますけかね)の門人となります。横山祐包のもとで腕を磨いた宮本包則は、鳥取藩に召し抱えられ、さらにその後、京都に鍛冶場を設けて尊王攘夷派の志士達が求める刀の制作を担いました。
「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)に才能を認められ、「孝明天皇」(こうめいてんのう)の作刀に携わった功績により、1867年(慶応3年)には「能登守」の受領銘を賜ります。刀の需要に応えるため、「戊辰戦争」に従軍した他、「明治天皇」の御太刀と御短刀も鍛えた宮本包則でしたが、1876年(明治9年)の廃刀令以降は刀の注文が激減。庶民相手の鍛冶仕事で糊口をしのぐ状況となります。
この窮地を脱するきっかけとなったのは、1886年(明治19年)に3年後の「伊勢神宮式年遷宮」で奉納する宝刀など多くの注文でした。期待に違わず応えた宮本包則は、明治天皇からも称賛され、1906年(明治39年)に帝室技芸員任命の栄誉に浴したのです。
1915年(大正4年)には「大正天皇」の大元帥刀を鍛えるなど、皇室・皇族にかかわる作刀に数多く携わった宮本包則は、1926年(大正15年)に97歳の天寿をまっとうしました。その正統派とも言える刀の迫力ある美しさは、愛刀家から高い支持を得ています。
「月山貞一」は本名を「塚本弥五郎」(つかもとやごろう)と言い、7歳のときに大阪の刀匠「月山貞吉」(がっさんさだよし)の養子となりました。月山貞吉から作刀を学んだ月山貞一は、若い頃から才能を発揮し、諸藩からの依頼を受けて作刀に従事。明治維新後の1869年(明治2年)には、35歳の若さで明治天皇の御剣を鍛えるという大仕事を果たすなど、他の追随を許さない力量を身に付けていました。
1876年(明治9年)の廃刀令は月山貞一にも影響を及ぼし逆境を経験しますが、それにも屈せず技術を磨き続け、1885年(明治18年)に明治天皇が作品を買い上げたことで名声を不動のものとします。明治天皇は、月山貞一の作品が持つ刃の冴えに心惹かれたとのことです。
そして1906年(明治39年)、帝室技芸員に任命され宮内省の御用刀匠となります。天皇・皇族の刀をはじめ、陸軍大学の成績優秀者が卒業する際に贈られる恩賜(おんし)の軍刀など、幅広く手掛けることとなりました。その作刀にかける熱意は非常に高く、制作中の刀を抱いて眠りに就き、起きるとすぐにまた鍛えるということもあったと伝えられています。
廃刀令などがあり、幾度も衰退の危機に直面した作刀の文化でしたが、決して途絶えることはありませんでした。刀はしっかりと受け継がれ、現代では美術品として高い人気を得ています。
現在も刀工の活躍は注目を集めており、その中でも最高位に位置付けられるのが「無鑑査刀匠」(むかんさとうしょう)です。「無鑑査刀匠」とは、「公益財団法人 日本美術刀剣保存協会」が主催する「現代刀職展」に出品された作品において受賞審査を必要としない資格のこと。選任されるための基準は下記の通りです。
「協会が主催する現代刀職展において、入賞15回のうち、特賞を8回以上(太刀・刀・脇差・薙刀・槍の部)受賞し、そのうちに高松宮記念賞(平成17年まで高松宮賞)を2回以上受賞した者、もしくは特賞を10回以上(太刀・刀・脇差・薙刀・槍の部の特賞を6回以上)受賞した者で、人格が高潔であり、刀匠として抜群の技量が認められる者」(「無鑑査選任基準1」より抜粋)。
この基準を満たした上で、日本美術刀剣保存協会の会長による理事会の承認議決を経て、無鑑査刀匠の資格が授与されます。現代刀匠が文字通り鎬を削る「現代刀職展」において、長期間にわたって受賞を続け、実績での選任基準をクリアするのは容易ではありません。
また、無鑑査刀匠に選任されたあとも、現代刀匠の模範となる存在でなければならないのです。原則として、毎年実施される「現代刀職展」には必ず出品する必要があります。さらに、高齢(75歳以上)であることや病気などの正当な理由がないにもかかわらず3回続けて出品しなかった場合や、無鑑査刀匠となったあとに顕著に技能が低下したと判断される場合などには、日本美術刀剣保存協会の会長が資格の取消処分を行う可能性もあるのです。無鑑査刀匠の資格制度を守り、高い水準を維持するため厳格に運営されています。作刀の文化は、刀工界のたゆまぬ努力によって継承されていると言えるでしょう。
「日本刀」と「刀」は、一見同じ意味で言葉が違うだけに思えます。しかし、実際には細かな定義があり、異なる意味を持っているのです。例えば日本刀には、日本で考案された独自の鍛刀方法がありますが、刀は、日本はもとより世界中のどんな方法でも作ることができます。また日本においては、日本刀という大きなカテゴリの中に、刀も入っていると言えるのです。日本刀と刀の違いについて詳しく見ていきましょう。
「日本刀」とは、刀身の片側に刃を備え「反り」の付いた刀剣のことを指し、平安時代中期から用いられるようになりました。
さらに日本古来の製法に則って作られていることも日本刀の条件であり、それは素材に「玉鋼」(たまはがね)を用いて、「折り返し鍛錬」をしたのち、「焼き入れ」を施していることです。また、広義の意味としての日本刀には、「槍」や「薙刀」(なぎなた)、「剣」(けん/つるぎ)も含まれ、刀身自体に美術的価値があることも外せません。
日本刀という名称は、もともと海外から見た日本独自の刀剣の総称です。日本では「刀」、剣、もしくは木刀や竹刀(しない)と区別して「真剣」と呼んでいました。
この日本刀という呼称は、北宋(古い中国の王朝のひとつ)の詩人「欧陽脩」(おうようしゅう)の「日本刀歌」に登場。当時の中国では、すでに日本刀が宝刀として尊ばれていたことが記されています。平安時代後期から鎌倉時代初期の頃より日本刀は海外で認められ、日本から輸出されていました。
一方、刀は武器の一種で、刀身の片側にのみ刃がある刀剣の総称です。
効果を高めるために反りを付けた構造の「湾刀」(わんとう)が多いとされますが、「直刀」(ちょくとう)と呼ばれる反りのないタイプもあります。
刀は日本のみならず、世界各地で用いられ、それぞれが独自の歴史を築いてきたのです。中国をはじめ、アジア諸国やヨーロッパでも、騎馬による戦いが多くなると、それまで主流であった両刃の剣に変わって片刃の刀が使われるようになりました。刀は、馬に乗ってすれ違いざまに振るうのに適していたためです。
しかし、西洋では特別に刀を表す言葉はなく、すべて「sword」(ソード)と呼ばれ、剣との区別はありません。
また前述のように、日本刀は素材となる玉鋼を熱したのち、叩き延ばして折り返し、また叩き延ばすという折り返し鍛錬を行いますが、海外の刀の製法は剣と同じ「鍛造」(たんぞう)か「鋳造」(ちゅうぞう)、あるいはその両方を組み合わせた方法です。
鍛造は、熱した金属を叩き延ばして成形する製法。鋳造では、高温でどろどろに溶かした金属を型に流し込んで形作ります。
時代劇で見るような、武士が大小の日本刀を腰に差す様式は戦国時代に生まれました。
大小2振のうち、長い方は「打刀」(うちがたな)と言い、短い方は「脇差」(わきざし)です。
どちらも日本刀ですが、刀と呼べるのは打刀のみで、この刀については刃長が2尺(約60.6cm)以上なければならないと決められています。
なお、刃長が1~2尺(約30.3~60.6cm)の日本刀は脇差で、1尺(30.3cm)より短いと「短刀」となります。
日本刀と刀の違いとは、つまり日本刀は総称で、刀は個称ということになります。
日本刀については、片刃であるのか、両刃であるのかは関係ありません。日本独自の製法で作られていることなどの条件が満たされている作品であれば、「太刀」(たち)、刀(打刀)、脇差、短刀、また広い意味では剣、槍、薙刀も入ります。
そして刀とは、日本においては日本刀の1カテゴリです。
海外では、基本的に両刃でまっすぐな形状の物は剣であり、片刃で反りのある物が刀となります。剣が突き刺すことに適しているのに対し、刀は斬り付けることがメインです。
また、剣は素材の鋼を硬くするために焼き入れを施しますが、刀は柔軟性を保つために行わないのが一般的。その点で、焼き入れを施し、突くことにも斬ることにも適した日本刀は、海外の剣と刀の特性を併せ持つ類まれな刀剣と言えます。
刀剣には長い歴史がありますが、日本刀は、一体いつ頃誕生したのでしょうか。日本刀の特徴は、「反り」が付いた「湾刀」であること。美しい反りのある太刀が完成したのは、武士が誕生した11~12世紀以降、平安時代中期と考えられています。
日本刀の歴史は、大きく3つの時代に分けられます。慶長年間以前に作られた日本刀を「古刀」(ことう)、慶長元年からを「新刀」(しんとう)、天明元年頃から明治維新頃までを「新々刀」(しんしんとう)。
また、「現代刀」(げんだいとう)とは、新々刀期以降から今日までに制作された日本刀のことです。ちょうどこの期を境に、日本刀の材料や作り方、戦法が変革。歴史的にも社会的に重大な出来事が起きているのです。
古刀期 | 平安時代~文禄4年(~1595年) |
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新刀期 | 慶長元年~宝暦13年(1596~1763年) |
新々刀期 | 明和元年~明治9年(1764~1876年) |
刀を鑑賞する際には、いくつかのポイントを知っておくと、より刀を楽しむことができます。観るポイントを押さえ、刀の美しさを体感しながら鑑賞することで、その深い魅力に気付くことができるのです。刀を鑑賞するには、刀の姿、刃文、地鉄の3つの要素を知ることが大切。他に、茎(なかご)や彫刻などにも刀の特徴が表れやすいことから、鑑賞のポイントとなります。これらを知ることで、作刀年代や生産地、流派を知ることができる他、刀の美しさを構成する理由も深く理解できるようになるのです。
刀を取り扱う際には、安全に取り扱うことと、傷や錆が付かないように大切にすることが重要。傷がつかないように、鑑賞の前には腕時計やアクセサリー類は外し、手を洗いましょう。刀身を持っているときは、唾が飛ぶのを防ぐために言葉を発しないよう注意。また、手から分泌される塩分・水分・皮脂は錆の原因になるため、茎以外の刀身を素手で触れないよう気を付けましょう。
刀の姿は、別名「体配」(たいはい)とも呼ばれ、刀身の茎以外の部分(鋒/切先から棟区まで)を指します。刀の姿は、いくつかある見どころとなる部分のなかでも、作刀された時代を知る有力な手がかりとなるポイントです。刀は、それぞれの時代の必要や目的に応じて、その姿に色濃く反映されているため、その時代ごとの特徴が表されています。姿は様々な部位から構成されており、刀を鑑賞する際には、そのひとつひとつに注目していくことが大切なのです。
姿を鑑賞するときは、茎尻を下に据え、茎を持った右腕を肩と水平に真っすぐ前に伸ばして体から刀身を離した状態で、刀身全体を観ます。このとき、刀身は垂直に立てて鑑賞しますが、茎を垂直に持つことを意識すると、反りが分かりやすくなるのです。このとき観ることができる反りや鋒/切先の大きさや、元幅から先幅への身幅の変化などは、作刀の時代を読み解く重要な情報になります。
「鋒/切先」とは、刀身の先端にあたる部位。「鎬筋」(しのぎすじ:刀身の側面、刃と棟の間にある山高くなった筋のこと)と刃から棟に引かれた「横手」(よこて)が交わる点である、「三つ頭」(みつがしら)より上の部分を指します。敵を直接斬ったり、刺したりする部位です。
鋒/切先は大きさや「ふくら」によって、小さなものから①「かます鋒/かます切先」、②「小鋒/小切先」(こきっさき)、③「猪首鋒/猪首切先」(いくびきっさき)、④「中鋒/中切先」(ちゅうきっさき)、⑤「大鋒/大切先」(おおきっさき)の5種類に分かれています。
戦闘様式や流行によって変化することから、鋒/切先の種類を観ることで、ある程度の作刀年代を判定することができるのです。またふくらとは、鋒/切先にあるカーブのこと。カーブがない直線的なものを「ふくら枯れる」、丸みを帯びているものを「ふくら付く」、「ふくら張る」と表現します。
さらに、形以外に「帽子」も鋒/切先における鑑賞ポイントのひとつです。帽子とは鋒/切先の刃文のことで、鋒/切先そのものを指すこともあります。難しい技術が必要な箇所で、刀匠の個性が最も表現される部位でもあります。
「反り」とは、鋒/切先から棟区までを線で結び、棟とその線までが一番離れている場所の寸法のこと。この反りこそ、刀を象徴する美しさの要で、戦闘方法の変化により、時代ごとの特徴がよく現れる部位でもあります。
大きく分けて6つの種類に大別され、それぞれ①茎に近いところからの反りを「腰反り」、②刀身の中心に反りの中心があるものを「中反り」、③鋒/切先に近いところに反りの中心があるものを「先反り」と呼び、④全く反りのない刀を「無反り」、⑤内側に反った刀を「内反り」、⑥刀身に反りが少なく、上身が刃の方に傾いている刀を「筍反り」と呼ぶのです。前者3つは打刀や太刀に多く、後者の3つは短刀に多く見られます。
平安時代から室町時代までは馬上での戦闘が主流であったため、抜刀しやすいように茎を反りの頂点とする傾向があります。それ以降の刀は、徒歩での戦に用いられることが多くなったため、刀身の中央よりも鋒/切先に近い部分に反りが始まる傾向があるのです。
「身幅」は棟から刃先までの幅のことで、「重ね」は、刀を縦にして棟の方から観た厚み、つまり棟の厚さのこと。また、柄の身幅と重ねをそれぞれ「元幅」(もとはば)・「元重ね」(もとかさね)、先端部分の身幅と重ねを「先幅」(さきはば)・「先重ね」(さきかさね)と言います。鋒/切先が小さく、先幅と元幅の差が大きくなることを「踏ん張りがある」と表し、この状態は優美な印象を与える姿。こうした踏ん張りがある姿は平安時代まで多く見られていましたが、鎌倉・南北朝時代には、先幅と元幅の差が小さくなっていきます。
身幅の変化を観るときには、重ねとの関係にも注目するとより詳細に時代が見えてくるのです。身幅が広く、重ねが厚い姿の刀は、平安時代後期から鎌倉時代中期にかけての作刀で、身幅が広く、重ねが薄くなっている姿は鎌倉時代後半から南北朝時代に主流になりました。このように、身幅と重ねのバランスは、刀の印象を大きく左右する一因となるのです。
刀を鑑賞する際のポイントはいくつかありますが、そのなかでもひと際目を引くのが、「刃文」の美しさ。日本で作刀された刀ならではの美麗さを表し、刀匠の特徴がよく現れることから、作者や作刀地が分かることも注目される理由のひとつと言えます。そんな刃文とは、「焼き入れ」(刃を赤くなるまで熱してから冷却する、刀の耐久性を上げる作業のこと)を経て生まれる「焼刃」(やきば)の模様です。刀身に見られる白い波のような模様ですが、刀を光にかざすことによって鑑賞することができます。
刃文を鑑賞する際は、白熱灯などの裸電球を目線より少し上に固定。鉄砲を構えるように、刀身を目線の高さまで持ち上げた格好で、刀身に光を反射させ、反射させる位置を刀身の先から手元に移動させるように観ます。刃文の形はどうか、そして帽子はどのような形をしているのかなどを、じっくり鑑賞してみましょう。刀身が重い場合には、袱紗を持った左手で下から支えると良いでしょう。
刃文の種類は、真っすぐな「直刃」(すぐは)と、波打つような「乱刃」(みだれば)の2つに大別することができます。
直刃は、焼幅が狭いものから①「糸直刃」、②「細直刃」、③「中直刃」、④「広直刃」の、主に4種類。一方、乱刃には様々な種類がありますが、基本となる乱刃は①「湾れ刃」(のたれば)、②「丁子乱刃」(ちょうじみだれば)、③「互の目乱刃」(ぐのめみだれば)の3種類です。
湾れ刃は、波がゆるやかに起伏するように直刃がゆったりとうねったように見える刃文で、大きくは「大湾れ」と「中湾れ」、「小湾れ」に分けられます。そのなかでも湾れが大きく乱れた「湾れ乱れ」や直刃に近い「直湾れ」などの種類があるのです。
「丁子乱れ」は、植物の丁子の実を連ねた形に見える刃文を指し、長さによって「大丁子乱れ」(おおちょうじみだれ)や「小丁子乱れ」(こちょうじみだれ)に分けられます。他にも丁子乱れには、丁子が重なったように見える「重花丁子乱れ」、蛙子(かわずこ:おたまじゃくし)のような乱れが交じった「蛙子丁子乱れ」など、様々なバリエーションが存在。
「互の目乱れ」は、丸い文様が連続して凹凸のある形に見える刃文のことです。丁子乱れと同様に複雑で長さや形によって区別されており、「小互の目」や互の目の片方が斜めに切り取られ、のこぎりの刃のように見える「片落互の目」、地に突き出るように互の目の頭が尖って連なり、背丈の異なる3本の杉が並んでいるように見える「三本杉(互の目尖り)」などがあります。
乱刃の刃文は28種類以上あると言われており、他にも数珠が連なっているように見える「数珠刃」(じゅずば)や、点状あるいは線状に沸を伴った飛焼(とびやき)が断続した「簾刃」(すだれば)、うねりの出ている波を模した「濤乱刃」(とうらんば)、刃先だけではなく地鉄部分にも広くにぎやかに焼き入れがされた「皆焼」(ひたつら)など、様々な種類があるのです。
刃文は、見え方が異なる「沸」(にえ)と「匂」(におい)と呼ばれる粒子から成ります。刃文の中の沸と匂を見分けるには、それぞれの粒子の大きさが決め手。沸は比較的粒子が粗く肉眼でも確認できますが、匂は肉眼での確認が難しいほどの微粒子です。沸が多く現れている刃文を「沸出来」(にえでき)、匂が多い刃文を「匂出来」(においでき)と表します。
刀身には研師が「化粧研ぎ」という一種の化粧を施しているため、この化粧を消して沸と匂の状態を鑑賞するには、刀を傾け、刀身に光を反射させるように観ると、沸や匂がよく見えるようになります。
沸には粒子の大きさが様々あり、大きい順に「荒沸」(あらにえ)・「中沸」(ちゅうにえ)・「小沸」(こにえ)に分別されます。「山城伝」(やましろでん)が「小沸本位」、「大和伝」(やまとでん)が「中沸本位」、「相州伝」(そうしゅうでん)が「荒沸本位」など、伝法によって違いが見られることから、それらを注意深く見極めることでどの流派の作刀であるかを知ることもできるのです。
沸と同様、匂も、伝法や流派を見極めるひとつの方法となります。例えば、「備前伝」(びぜんでん)と「美濃伝」(みのでん)は匂本位ですが、備前伝がひと目観て「匂出来である」と判別できるのに対し、美濃伝は、沸本位と比べれば「匂が多い」と言える程度です。また、匂は粒子が視認できない代わりに、粒子の集合体の幅や色などによって様々な表現がされます。
刃文と地鉄の境界線を「匂口」(においぐち)と呼び、匂の幅が広く、色が濃くなっている状態を「匂深し」、匂口が光を受けて強く輝き、くっきりと見えている状態を「匂口締まる」、匂口がはっきりと明るく光って見えている状態を「匂口冴える」と表現。他にも、「匂口沈む」、「匂口潤む」など、様々な表現で表されるのです。
刃文は、沸や匂など刃文を構成する要素が様々な形に変化し、刃中に多彩な文様である「刃中の働き」を作り出します。例えば、「足」(あし)は沸や匂が「刃縁」(はぶち:匂口が現れる箇所)から刃先にかけて、線状に差し込んだ働きを指し、長さや向き、形によって「逆足」(さかあし)や「小足」、「丁子足」(ちょうじあし)などに分かれるのです。
他にも、小沸や匂が刃縁から離れて、刃中に楕円状になって点在している働きを「葉」(よう)、沸や匂の一部が鍛え目に沿って細い線状に連なった働きを「ほつれ」、刃中の鍛え目に沿った黒く太い線状の働きを「金筋」(きんすじ)、沸がほうきで掃いた砂のように、線状に連なっている働きを「砂流し」(すながし)と呼ぶなど、刃文には様々な働きがあり、刀の印象を左右します。刀を鑑賞する際には、刃文の種類だけでなく、刃中に現れる働きをよく観ることが大切です。
地鉄とは、鋼そのものの材質と、刀特有の製造法である「折り返し鍛錬」をすることにより現れる「鍛肌」(きたえはだ)の模様、及び模様が現れる部位そのもののこと。
五箇伝である「大和伝」、「山城伝」、「備前伝」、「相州伝」、「美濃伝」それぞれに流派の特徴があり、得意な文様も異なります。姿や刃文と同様に、流派や刀匠の個性が表れる部分である地鉄は、美しさもかね備えている見どころのひとつです。
地鉄の鑑賞は、天井の蛍光灯などを光源とするのがおすすめの鑑賞の仕方。その際、袱紗などの綺麗な布をあてがいますが、刀身が擦れないように注意が必要です。地鉄の色や映りには、作刀された国を見極めるヒントが隠されています。
「杢目肌」(もくめはだ)、「板目肌」(いためはだ)、「柾目肌」(まさめはだ)、「綾杉肌」(あやすぎはだ)などが基本肌として現れますが、1種類だけの肌模様をしているものは少なく、一般的には混在して現れます。
「杢目肌」は樹木の年輪のような模様をしており、板目肌と杢目肌の複合が主流。杢目肌には「映り」(うつり:地鉄に現れる、刃文の影が映ったような部分)が出やすく、備前伝に多い地鉄です。「小杢目肌」は山城伝の粟田口派(あわたぐちは)の刀工や、相州伝開祖の「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)など、最高級の鉄を使用した少数の刀工のみに見られます。
「板目肌」は、木材の板のような模様で、地鉄の模様のなかでも、様々な刀に現れる代表的な模様です。板目が細かいものを「小板目肌」、板目が大きなものを「大板目肌」と言います。大板目肌は相州伝に多く、小板目肌は山城伝、備前伝に多いです。
「柾目肌」は、木を縦に切ったように真っすぐな模様で、奈良時代以前の上古刀に見られる最も古い鍛肌であることから、最古の流派である大和伝に多く見られます。純粋な柾目だけのものは少なく、板目肌や柾目肌の一部に交じっているものが主流です。
「綾杉肌」は、綾杉の木地に似た波のうねりのような模様の地鉄。「出羽国」(現在の山形県と秋田県)の「月山鍛冶」(がっさんかじ)や「奥州鍛冶」(おうしゅうかじ)が得意としたことから、「月山肌」(がっさんはだ)とも言います。
他にも、粟田口派が得意とした、細かく力強い地沸が均等に付き、果物の梨の断面のように潤って見える「梨子地肌」(なしじはだ)や、鍛え目が分からないほどよく詰まれ、鏡面のような美しさの「無地肌」(むじはだ)などの種類があるのです。
折り返し鍛錬や焼き入れにより、地鉄部分に現れた模様のことを「地中」(じちゅう)と言います。地中には各種の働き(地肌や刃中に動きや変化のあること)が見られ、なかでも最も見極めが難しいのが「地景」(ちけい)です。地景とは黒光りする細い線が鍛肌に寄り添って黒く見える線のことで、大肌目の場合は見えやすく、肌目が細かい場合は認識しにくいと言われます。この働きが刃部に現れるのが「金筋」や「稲妻」です。
「地沸」(じにえ)は、地鉄に現れた沸のこと。刃に現れるものを「刃沸」(はにえ)、地鉄に現れるものを地沸と呼びます。沸による地中の働きは他にも、強弱のある地沸がからみあって、複雑なまだら模様になった「地斑」(じふ)や、刃縁から沸や匂が地中に流れ込むように連なり、激しく流動的な模様になった「湯走り」(ゆばしり)、沸が刃線を越えて、飛焼状あるいは湯走状に地中にまで及び、まだらになった「沸こぼれ」があります。
「映り」(うつり)は、かすかにおぼろげに見える部分で、特に備前刀に多いと言われる働きです。刃文の影が映ったように黒く現れて見えたり、息を吹きかけたように白く見えたりする働きのこと。映りが乱れて見えるものを「乱映り」と呼び、真っすぐに見えるものを「棒映り」と呼びます。
刀身彫刻とは、刀の刀身に施された彫刻のことです。龍や「不動明王」(ふどうみょうおう)などの他、「樋」(ひ)と呼ばれる、細長い溝が彫られたものもあります。刀身彫刻はひと目観るだけで、その精緻さや美しさを感じ取れることから、初心者の方にも分かりやすい見どころのひとつ。
図柄や彫り方などに作者の特徴が現れる部分でもあり、宗教的な図像が多く取り入れられたことから、作者や注文者の信仰が込められている部分でもあります。また、刀身彫刻は装飾的な美しさだけではなく、刀身の軽量化など実用性もかねていました。
刀身彫刻には、写実的な「真」、ほどほどにデフォルメされた「行」、極端に簡略化された「草」の3種類があります。
また、刀身彫刻の技法の種類は、簡素な線を形のままに彫りあらわす「陰刻」(いんこく)と、文様の周りを掘り下げて文様を浮き上がらせる「陽刻」(ようこく)の2つが主流。
他にも、図柄の周囲を彫り下げて図柄を肉高く表現する「地肉彫」(じにくぼり)、樋や櫃(ひつ:刀身の表面に施された長方形、または卒塔婆形の溝)の内部に、表面が刀身と同じ高さになるように彫り入れる「浮彫」(うきぼり)、主題となる像を地肉彫し、周囲を削り抜いて向こうが透けて見えるようにする「透彫」(すかしぼり)などの技法があります。
刀身彫刻の主題として多く見られるのが、「密教」に由来する意匠です。平安時代末期から鎌倉時代初期において、戦が激化し、何度も繰り返されるようになると、武士達は神仏の加護を求め、彫刻の意匠にその信仰心を込めるようになりました。
仏教の守護神で、密教においては「大日如来」(だいにちにょらい)の化身とされる一尊である「不動明王」に関する意匠が特に人気で、不動明王像をそのまま彫刻した他、「梵字」(ぼんじ:サンスクリット語を起源とする、密教で扱われる文字)で不動明王を表したもの、不動明王の化身である「倶利伽羅龍」(くりからりゅう)や「素剣」(すけん)などが多くの刀身彫刻に見られます。他にも、「愛染明王」(あいぜんみょうおう)や「大威徳明王」(だいいとくみょうおう)、「摩利支天」(まりしてん)などの戦にかかわりのある軍神が刀身彫刻のモチーフとして人気です。
なお、龍に関しては、倶利伽羅龍以外にも、古代中国の「神仙思想」(しんせんしそう:神や仙人に不老不死の願いを見出した思想。道教[どうきょう]の基本となった)に基づいた龍神への信仰から、「這龍」(はいりゅう)、「珠追龍(玉追龍)」(たまおいりゅう)、「昇龍」(のぼりりゅう)、「降龍」(くだりりゅう)など、多くの図像が考案されました。
「樋」とは、刀身彫刻の一種で、鎬地に彫られた溝のこと。血が樋の中を流れていく様子から別名「血流し」とも言われます。樋は重量の軽減と強度の増加を両立させる効果があるとされ、最も古いものは平安時代から存在しており、10種類ほどの樋があるのです。
「掻通し/掻流し」(かきとおし/かきながし)は最も古くからあり、シンプルな樋が茎尻(なかごじり)まで貫かれています。最もシンプルで典型的な樋は「棒樋」(ぼうひ)と呼ばれる、刀身に沿って1本の樋が掻かれたもの。
「添樋」(そえび)は棒樋に沿うように掻かれたもう1本の細い樋のことで、「連樋」(つれび)は棒樋に沿って彫られた細い樋が、棒樋の先端にまで掻かれている添樋の一種を言います。
また、「二筋樋」(ふたすじひ)は、細い2本の樋を同じ太さで平行に彫ったものを指し、「腰樋」(こしび)は、茎寄りに掻かれた短い樋のこと。
その他にも、区際における樋の止め方によって「丸止め」(まるどめ)や、「角止め」(かくどめ)、「片チリ」(かたちり)や「両チリ」(りょうちり)などの種類があります。
樋に血が流れ、錆が付きやすいと言われることから、手入れをしやすくするために実戦で扱われていた刀の樋には「朱漆」(しゅうるし)が塗られている場合もあるのです。シンプルでありながら、彫刻する際に彫師の腕前が試される「樋」の鑑賞は、朱漆の有無や、樋があることで引き締まり美しくなった刀の印象に注目して観るのがおすすめです。
刀の「銘」とは、刀の茎部分に彫られている文字で、銘には刀の作者や作刀年、所持者などが入れられています。
銘は、鏨(たがね)という棒状の工具を槌(つち)で叩いて、茎の表面に切り込みを入れることで記され、一般的に太刀は「佩表」(はきおもて)、打刀は「差表」(さしおもて)に作者銘、裏側に作刀年月や作刀地などが切られました。表側に彫られた銘を「表銘」(おもてめい)、裏側に彫られた銘を「裏銘」(うらめい)と呼びます。
銘を入れる方向や周囲の盛り上がり方、書体など、銘の入れ方にも作者の個性が表れることから、銘は刀を鑑定する際の大きな指標となり、真贋の鑑定に用いられる場合も多いのです。
上古刀期から古刀最初期は無銘の刀が一般的でしたが、平安時代末期には刀匠が茎に自らの名前を彫る「作者銘」(さくしゃめい)が普及。現存している在銘刀のなかでも最も古いのが、平安時代に活躍した「古備前」(こびぜん)の刀匠「安綱」(やすつな)による太刀です。はじめは名前の2文字のみを彫る「二字銘」(にじめい)が一般的でした。
次第に、刀匠が朝廷や幕府から与えられた国司名を付けて切った「受領銘」(ずりょうめい)が出現。主な受領銘として、「守」(かみ)や、「大掾」(だいじょう)、「介」(すけ)などがあります。
茎の裏側にも銘が切られるようになり、主に「紀年銘」(きねんめい)と呼ばれる、作刀年月を記した名が入れられるようになりました。年号に加え、正確な月日を刻む場合もありますが、多くは焼き入れに適した時期である「二月日」、「八月日」と切られています。
また、刀に作者ではなく、所持者の名前を銘に入れる「所持銘」(しょじめい)も存在。刀を注文する際に注文者が希望して切った銘の他、刀を入手した人物により、名前や所持するに至った由来を切る場合もあるのです。所持銘は、室町期と江戸末期の刀に多く見られます。
一方、「注文銘」(ちゅうもんめい)は、日本刀を注文した人の名前を切った銘です。刀匠は自分の名前と、注文者の名前を同時に切ります。刀には、武士などから注文されて仕上げる「注文打ち」と、大量生産された「数打ち」と呼ばれるものがありました。注文銘が入れられた刀は、言わば、数打ちではないオーダーメイドの証とも言えるのです。
その他、刀の切れ味を表す銘として、「截断銘」(さいだんめい/せつだんめい)と呼ばれるものがあります。截断銘は、刀の切れ味を測るために行った試し斬りの評価を銘に入れたもので、「二ツ胴」や「三ツ胴」と記されました。これは、罪人の死体の胴を何体重ねて斬ることができたのかということが由来。また、その他に切れ味を表現する方法として、笹のつゆを払うが如く容易く首を落とすと言う意味で「笹の露」、糸がもろく切れやすいことから「古袈裟」などの表現も見られます。
次に、磨上げられたときにのみ見られる銘として、「折返銘」(おりかえしめい)と「額銘」(がくめい)の2つが存在。折返銘は、磨上げの際に銘を残すために銘が入った部分を裏面に折り返して嵌め込んだ銘のことで、文字が上下反対になっているのが特徴です。額銘は、折り返しても銘が残せないときに、元々の銘を短冊形に切り取って茎に嵌め込んだ銘のこと。嵌め込んだ銘が額のように見えることから額銘、もしくは「短冊銘」(たんざくめい)とも言います。
また、無銘の刀でありながら、鑑定士により、後世になってから付けられた銘もあるのです。安土・桃山時代、「豊臣秀吉」が「本阿弥家」に刀剣鑑定を委任したことにより、無銘極めの刀に鑑定による銘が入れられました。
鑑定士による銘には、茎を傷付けないために朱漆で書かれた「朱銘」(しゅめい)と、金粉を混ぜた漆で記された「金粉銘」(きんぷんめい)、金象嵌(きんぞうがん)や銀象嵌(ぎんぞうがん)で記した「金象嵌銘」や「銀象嵌銘」が存在。朱銘と金粉銘は「生ぶ茎」(うぶなかご:刀が作られたときの状態を保った茎)に入れられましたが、金象嵌銘・銀象嵌銘は大磨上げや無銘の刀にのみ入れられました。
刀剣を鑑賞する際に重要となる「鑑定区分」という言葉を耳にしたことはあるでしょうか。「鑑定区分」とは、刀剣の評価分類のことを指し、「日本国」による「国宝」、「重要文化財」、「重要美術品」と、「公益財団法人 日本美術刀剣保存協会」による「特別重要刀剣」、「重要刀剣」、「特別保存刀剣」、「保存刀剣」という評価があります。
国が定める「有形文化財」のうち、文部科学大臣が特に重要と判断した文化財を重要文化財と言い、そのなかでもさらに文化史的価値の高い物が国宝です。
現在の国宝は、1950年(昭和25年)に制定された「文化財保護法」に基づき、国民的財産を保護・活用することを目的として設けられました。文化財保護法が施行される以前に国宝と指定された文化財は、新たに選定された国宝と区別するために「旧国宝」と表記されることがあります。
「重要美術品」とは、1933年(昭和8年)に制定された「重要美術品等の保存に関する法律」によって認定された、国宝に準ずる美術的価値を備えた美術品のこと。1950年(昭和25年)に文化財保護法が制定されたことにより廃止されましたが、現在も重要文化財に次ぐ価値があるとして、重要美術品の名を残しているのです。
文部科学大臣の許可のもと、公益財団法人・日本美術刀剣保存協会でも、1948年(昭和23年)より、優れた刀剣を評価し、鑑定書を発行しています。
最も上位ランクの「特別重要刀剣」とは、国が指定する重要美術品の上位にあたる刀剣と同等の価値があり、保存状態も申し分のない傑作刀です。
次の「重要刀剣」とは、平安時代から江戸時代までの作品で、特に保存状態が良く、由緒ある素性が明らかとなっている刀剣のこと。
「特別保存刀剣」は、保存刀剣の中でも出来栄えが優れ、保存状態の良い刀剣です。明治時代、または大正時代に作刀された作品でも傑作と認められれば選ばれることもあります。
「保存刀剣」は、江戸時代までに作刀された在銘の作品であれば、美しさを損なわない程度の傷や補修の跡があっても選定。明治時代、大正時代に作刀された作品でも、在銘で優れた価値を認められれば選定されます。
なお、以前には「特別貴重刀剣」、「貴重刀剣」といった評価項目もありましたが、1982年(昭和57年)5月に廃止され、同年9月から現在の鑑定制度に変更されています。特別貴重刀剣、貴重刀剣は廃止された認定制度であるため、これらの認定書をお持ちの方は、公益財団法人・日本美術刀剣保存協会による鑑定を受け直すことをおすすめします。
「天下五剣」(てんがごけん)は、数多くある刀剣の中で、室町時代頃より特に名物と言われた5振の総称です。その5振とは、「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)、「三日月宗近」(みかづきむねちか)、「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)、「大典太光世」(おおでんたみつよ)、「数珠丸恒次」(じゅずまるつねつぐ)のこと。
天下五剣は、名物の中でも刀剣の世界において最高傑作とされており、その美しさと優美な姿は、今でも人々を魅了し続けています。
特に名槍(めいそう)と誉れの高い3本を「天下三名槍」(てんがさんめいそう)、もしくは「天下三槍」(てんがさんそう)と言います。
江戸時代にはすでに西の「日本号」(にほんごう/ひのもとごう)、東の「御手杵」(おてぎね)と並び称されていましたが、そこに「蜻蛉切」(とんぼぎり)が入って、明治時代から天下三名槍と呼ばれるようになりました。
作刀年代 | 刀鍛冶 |
---|---|
室町時代末期 | 駿河国 島田義助 |
所蔵 | 刃長 |
焼失 | 4尺6寸(約139cm) |
主な所有者・伝来 | |
結城晴朝 → 結城秀康 → 上州前橋藩主松平家 |
はじめて日本刀を間近で観た人は誰もが、その静寂で神秘的な美しさに心を奪われてしまうことでしょう。鉄でできた日本刀に、なぜこれほど魅力を感じるのでしょうか。
日本刀は、日本の伝統工芸品。切れ味や強度という実用面はもちろん、焼き入れや彫り物など、美しさにおいても高度な技術を誇っています。また、長い歴史の中で、様々な武将や有力者に所有され、多くの物に物語(エピソード)が備わっているのも魅力。
日本刀に興味がある、日本刀が好きという人は、概して「日本の歴史が好き」、「武将が好き」という人が多いように思います。刀剣・日本刀を作った刀工や、所持していた武将の一生を追ってみるなど、日本刀の来歴を辿れば、日本史を深く味わい楽しむことが可能。歴史に思いを馳せ、知識を身に付けるほどますます魅力が感じられる、こんなに素晴らしい物はありません。
時代ごとに姿を変え、勇ましい武士に寄り添い、腰に携帯されてきた日本刀。武士の魂と言われるほど長きに亘り信仰の対象として、さらに持つ人の権威の象徴として、現代まで大切にされてきました。
日本刀は、人間を守ってくれる物でもあり、人間を傷付ける物でもあります。本来は錆びていってしまうはずなのに、受け継がれることによって、何百年も美しさが保たれている神秘的な物です。神社や寺に奉納されるような尊い物なのに、博物館等に行けば、気軽に観ることができます。
この刀剣ワールドが、「刀剣・日本刀についてもっと知りたい」、「本物を観に行きたい」という、あなたの探究心を満足させる物になれば幸いです。
「日本刀」とは、広義の意味としては日本国内で作られた刀剣類の総称です。狭義の意味は「鎬[しのぎ]があり、反りを持った湾刀」であり、これが作られるようになったのは、平安時代中頃と言われています。
「直刀」(ちょくとう)とは、「湾刀」が作られるようになる平安時代中頃以前に、日本国内で鍛造された反りのない、まっすぐな日本刀のこと。刃長がおよそ60cm超の直刀を「大刀」(たち)と表記するのに対し、大刀よりも寸法が短い直刀を、「横刀」(おうとう・たち)と表記することもあります。
日本刀は、作られた年代によって呼び方が変化します。奈良時代以前に、朝鮮半島より伝来した刀剣の製造技術によって作られた刀剣が「上古刀」(じょうことう)。当時中国で盛んに作られていた、反りがなく、刺突に適した「平造」(ひらづくり)の直刀でした。
現存する中では最も古い刀剣である飛鳥時代の上古刀として、聖徳太子が所持していたとされる「七星剣」(しちせいけん)があります。七星剣とは、刀身に金象嵌(きんぞうがん)で「北斗七星」(ほくとしちせい)が施された直刀です。実戦向けでなく、国家守護や魔除けの目的で作られました。
四天王寺(大阪府)所蔵の国宝である鉄製の七星剣や法隆寺(奈良県)所蔵の「銅七星剣」など、聖徳太子ゆかりの寺院に伝わります。
古墳時代末期作とされる「金銅荘環頭大刀」(こんどうそうかんとうたち)は、土佐国(とさのくに:現在の高知県)の小村神社の御神体として、1,000年以上もの間、秘蔵されてきました。
同時代の大刀のほとんどが、古墳等からの出土品である中、「伝世品」(でんせいひん:古くから大切にされ、人の手を経て世に伝わってきた物。特に考古学で、出土品に対しての呼び名)であることから、日本刀剣史上貴重な作とされています。
「切刃造」(きりはづくり)の直刀で、儀仗(ぎじょう)用の宝剣として制作されました。様式化された柄頭の透かし彫りが特徴的です。国宝指定され、毎年11月15日の秋季大祭時にのみ一般公開されます。
奈良時代以前では直刀が作られ、武士の登場する平安時代中期からは湾刀が作られるようになりますが、その間の平安時代前期には、どんな刀剣が作られていたのでしょうか。
直刀は、平安時代前期の「蝦夷」(えみし・えぞ:東北地方の先住民族)との戦いを契機として、変化していきます。蝦夷の武器の影響を受け、日本独自の進化を遂げて、反りのある湾刀が完成していく過渡期が、平安時代前期なのです。
「黒漆剣」(くろうるしのつるぎ)は、平安時代前期に蝦夷を平定した征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)佩用と伝わる直刀で、鞍馬寺所蔵。嵯峨天皇(さがてんのう)からの坂上田村麻呂への信頼は厚く、田村麻呂の死後も、天皇はその佩刀を身近に置いたほどでした。
これは後世まで「坂上宝剣」(さかのうえのたからのつるぎ)として伝わる朝廷の守り刀でしたが、2018年(平成30年)現在は所在不明で、黒漆剣と同一かどうかは、諸説あり、真偽は分かっていません。
平安時代中期に作られた太刀で、「日本刀のルーツ」とされているのが「毛抜形太刀」(けぬきがたたち)です。突くことが得意だった直刀から、斬るための湾刀へ移行する途中の形状で、刀身の反りは少なめです。蝦夷が使用していた、柄の湾曲した「蕨手刀」(わらびてとう)が徐々に変化してできた物と言われています。
また、毛抜形太刀とは変わった名前ですが、柄の優美な透かしが、古代の毛抜きに似ていたため、この名が付けられました。
国宝に指定されている「金地螺鈿毛抜形太刀」(きんじらでんけぬきがたたち)は、彫金工芸の傑作。純度の高い金を使用しているため、時代を経ても美しく輝いています。
岩手県一関地方では、平安時代から室町時代にかけて「舞草刀」(もくさとう)が作られていました。舞草刀の最大の特徴が刀身の反り。日本刀の刀身に反りがあるのは当たり前ですが、舞草刀が作られ始めた当時においては、刀身が真っ直ぐな直刀が一般的でした。そのため、刀身に反りのある舞草刀の登場は衝撃的だったと言えます。
舞草刀を作り出したのは「舞草鍛冶」(もくさかじ)と呼ばれた刀工集団。彼らは、奥州藤原氏の庇護の下で作刀に励んだ刀工です。奥州藤原氏の下で栄えた「平泉文化」では、常に最高水準の物を追求していました。このような気風の中、舞草鍛冶達は、のちの日本刀につながる刀を作り出したのです。舞草刀は、その品質の高さが認められ、都において「衛府」の刀とされていたと言われています。
舞草刀については、古墳時代に東北を拠点としていた蝦夷が用いていた蕨手刀にも若干の反りが見られることから、これを参考にしたという説もあるのです。
「小烏丸」(こがらすまる)は平安時代中期、日本刀の祖と呼ばれる大和鍛冶「天国」(あまくに)作と伝わる太刀です。「鋒/切先両刃造」(きっさきもろはづくり)と呼ばれる、鋒/切先(きっさき:刀身の先端部分)のみが両刃(もろは)となった独特の造込みが特徴です。
主に刺突(しとつ)を目的とした直刀と、斬撃を目的とした湾刀の過渡期に、双方を目的として考案されたと言われています。この造込みの代表作が小烏丸であることから、別名「小烏造」(こがらすづくり)とも呼ばれています。
平氏の重宝として伝わり、「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)で、海の底に沈んで行方不明になったとされていた物が、江戸時代に発見されました。現在は「御物」(ぎょぶつ:日本の皇室の私有品となっている宝物)となっていますが、現存する小烏丸が、天国作の物かどうかは諸説あり、詳細は不明です。
太刀は、長さ2尺(約60cm)以上で、刃を下に向けて紐で吊して腰に装着していました。これを「佩く」(はく)、「佩用する」(はいようする)と言います。
太刀は騎馬での戦いに向くとされ、武士同士の騎馬戦が多かった時代に多く作られました。のちに登場する「打刀」(うちがたな)に対して、反りが深いのが特徴です。大きさによって以下のように分類されています。
大太刀(おおたち)は、その寸法に一般的な規定はありませんが、長大な太刀が総じて大太刀と分類されました。実戦で使用する武器としてではなく、神社への奉納を目的として作られた日本刀です。現存する大太刀としては、新潟県「彌彦神社」(やひこじんじゃ)所蔵の「志田大太刀」(しだのおおたち、刃長約224cm)や、栃木県「日光二荒山神社」(にっこうふたらさんじんじゃ)所蔵の「祢々切丸」(ねねきりまる、刃長約216cm)などがあり、この2振は、いずれも国の重要文化財に指定されています。
野太刀(のだち)は、大太刀の中でも実戦に使われた刀剣です。一般的には刃長が3尺(約90cm)を超え、厚みがあってがっしりとした作りが特徴。拵は、華美でなく実用向きに作られた、軽量で丈夫な物がほとんどです。現存する野太刀としては、岡山県「吉備津神社」所蔵の「吉備津丸」(きびつまる)を挙げることができます。
「備前長船派」の「法光」(のりみつ)によって室町時代に作られた吉備津丸は、刃長約226.7cmという長大な作ですが、最大の特徴は刀身には焼きが入れられ、茎(なかご)が刀身に合わせて長く作られていること。すなわち、実戦で使えるように作られた大太刀であると考えられます。また、重さはほぼ同じサイズである祢々切丸が約24kgであるのに対して半分程度の約13kg。軽量化によって扱いやすさも上がっていると言えるのです。
小太刀(こだち)にも、特に寸法に規定はありません。一般的に、太刀と短刀の中間の長さで刃長2尺(約60cm)前後が、小太刀です。
単独で実戦に使われることはなく、儀式用の太刀や太刀の差し添えとして使われることがほとんどだったと言われています。
太刀は、国技である相撲にも登場します。横綱の土俵入りで太刀を持って横綱に付き添う力士が「太刀持ち」です。この太刀持ちの由来には、神聖な日本刀で土俵を清めるためと言う説や、かつて力士が名字帯刀を許されていたことに関係している、と言う説などがあります。
使用する太刀は、「陣太刀拵」(じんだちこしらえ)と言う名の装飾用の1振で、江戸時代に武家が公式の場で儀礼用に佩用した物です。収められる刀身は、かつては真剣(しんけん:焼きを入れた本物の日本刀)でしたが、戦後は竹光(たけみつ:竹を削って刀身のように見せている物)がほとんどとなっています。
鎬があり、反りを持った湾刀である日本刀が登場したのは、平安時代中頃。そこから室町時代中期頃までは、日本刀と言えば、騎馬で使用する太刀がほとんどでした。
しかし、戦国の世になり、合戦の中心が足軽による集団戦になると、徒戦(かちいくさ:歩兵による戦い)に向いた「打刀」(うちがたな)がメインとなっていくのです。室町時代以降は、日本刀と言うと、ほとんどの場合はこの打刀のことを指していました。
室町時代以降に作刀された、長さ2尺(約60cm)以上の日本刀です。刃を上に向けて腰に差して身に付け、これを「差す」(さす)、「帯刀する」(たいとうする)と言いました。
太刀より軽く抜きやすい打刀は徒歩での戦いに向くとされています。戦国時代以降、戦いの多くが集団戦となり、足軽同士の徒歩での戦いが増えると、太刀に代わって多く作られるようになっていきました。
刃を上にして差すため、抜いたそのままの動きで敵を斬ることができ、とても便利だったので、あっと言う間に大流行します。テレビの時代劇などで、武士が腰に差しているのが打刀です。
展示された刀剣を観ると、太刀か打刀かどちらかで迷うこともあるのではないでしょうか。しかし実は簡単な方法で見分けることもできるのです。
太刀と打刀では、展示されている向きが違っています。基本的に、柄を向かって左に配した状態で、「刃が下」になっていたら太刀、逆に「刃が上」になっていたら打刀。まれに柄が右になっていることもありますが、その場合は逆になります。
柄が左に来ている状態は、実際に刀剣を身に付けているのと同じなので、身に付けるときも展示をするのも「打刀は刃が上」と覚えると分かりやすいです。
室町時代以降に作刀された、長さ2尺(約60cm)以上の日本刀です。刃を上に向けて腰に差して身に付け、これを「差す」(さす)、「帯刀する」(たいとうする)と言いました。
太刀より軽く抜きやすい打刀は徒歩での戦いに向くとされています。戦国時代以降、戦いの多くが集団戦となり、足軽同士の徒歩での戦いが増えると、太刀に代わって多く作られるようになっていきました。
刃を上にして差すため、抜いたそのままの動きで敵を斬ることができ、とても便利だったので、あっと言う間に大流行します。テレビの時代劇などで、武士が腰に差しているのが打刀です。
今でこそ、「日本刀は武士の魂」とされ、「武士=日本刀」というイメージがありますが、古くは武道のことを「弓馬の道」と呼び、武芸の花形は弓だったのです。日本刀はあくまでも、それらの主力武器を失ったり、接近戦になったりした場合の補助的な武器でした。日本の歴史を通じて、日本刀が合戦の主役になったことはほとんどないのです。
唯一、日本刀が戦いの主役になったのは、幕末の動乱期でした。当時は新撰組のような治安警察が反幕府勢力の活動を取り締まったため、街中での接近戦が多く、またそのほとんどが少数同士での戦いだったのです。そうした条件下に最も適していたのが打刀です。
狭義の日本刀には、太刀や打刀以外に、打刀よりも短寸で、鎬があり、反りを持った湾刀である「脇差」(わきざし)も含まれます。
脇差は、室町時代以降に登場し、太刀や打刀の差し添えとして用いられた日本刀です。江戸時代に、大小二本差していた内の「小刀」(しょうとう)のことで、小型の打刀とも言えます。短刀より長く、日本刀(太刀・打刀)より短く、日本刀より反りは少なめです。
打刀と同じように、刃を上にして帯に差します。打刀より短いため、接近戦や狭い場所での戦闘に用いられました。
大小の刀剣が武士だけの物になるのは、江戸時代に「武家諸法度」(ぶけしょはっと)で、大小二本差が武士の正装として定められてからです。それを機に、「大小は武士の魂」と言われるようになりました。
武士以外の帯刀が禁止されてからも、庶民にも護身用に脇差の帯刀はある程度認められていたと言われています。
作刀年代 | 刀鍛冶 | 所蔵 |
---|---|---|
南北朝時代 | 備中国青江派 | 丸亀市立資料館 |
刃長 | 反り | 先幅 |
1尺9寸9分 (約60cm) |
1.2cm | 2.6cm |
主な所有者 | ||
丹羽長秀 → 丹羽長重 → 京極高次 |
作刀年代 | 刀鍛冶 | 所蔵 |
---|---|---|
安土桃山時代 | 山城国堀川国広 | 不明 |
刃長 | 反り | 先幅 |
1尺9寸5分 (約59cm) |
- | - |
主な所有者 | ||
土方歳三 |
日本刀とは、狭義には鎬があり、反りを持った湾刀と定義される物です。基本的には太刀や打刀などが該当します。しかし、広義には日本国内で作られた刀剣類の総称で、反りや鎬のない「短刀」も含まれているのです。
短刀は鎌倉時代から室町時代にかけて、組み打ちの際や敵の首を取るのに使われるようになりました。桃山時代になると戦いの際には使用されなくなりましたが、江戸時代以降には護身用の刀剣として用いられるようになります。
長さ1尺未満となる短寸の日本刀。反りが少ない、もしくはまったくない平造の短刀がほとんどです。剣のように両刃の短刀もあり、脇差より短寸の物を短刀と呼びます。短刀は、柄と刀身の間に「鍔」(つば)がありません。このことから、短刀は別名「合口」(あいくち)と呼びます。
鎧通し(よろいどおし)は、刃長は9寸5分(約28.8cm)前後で短く、刃幅が狭く、重ねの厚い頑丈な作りの短刀です。
その名の通り、組み打ちの際に鎧の隙間から刺突するために用いられました。
懐剣・懐刀(かいけん・ふところがたな)は、腰に差す「腰刀」(こしがたな)に対して、護身用に、常に懐の中に入れておく、短刀の中でも特に小型の日本刀です。「護り刀」(まもりがたな)として、誕生した子供や花嫁に贈ったり、武家に生まれた女性が嫁ぐ際に「いざと言うときには、自分の身は自分で守るように」と身に付けたりしたのが始まりでした。
武家の花嫁衣裳である白無垢(しろむく)や打ち掛けでの挙式の際に、花嫁が胸に懐剣を差し込むのは、この風習の名残です。現代では、剣には神が宿るとされることから、魔よけや厄除けの意味合いが強くなってきています。
男性にとっては、打刀や太刀の使用が難しい場所での護身用武器であり、女性も外出時に護身用に携帯することがありました。懐剣の中には先祖代々伝わる名刀も数多く遺されています。
身を守るための武器であると同時に、自害に使われる道具としてのイメージも強いのが短刀です。日本の国技である相撲で勝敗を判定する「行司」(ぎょうじ)は、腰に短刀を差しています。この短刀は誤った判定をした場合に自害をするための物と伝えられ、相撲の判定にはそれだけの覚悟が求められていたのです。
明治天皇崩御の際に殉死した「乃木希典」(のぎまれすけ)とその妻・静子夫人。夫人が自害に用いたのは懐剣でした。薩摩藩上士の娘であった静子夫人の愛用の日本刀は、明治時代の名工・月山貞一(がっさんさだかず)の物だとされています。月山家は天皇家の佩用太刀や守り刀などにも携わりました。
日本史上最後に割腹自殺をした著名人は、作家の三島由紀夫と言われていますが、その際にも短刀を使用しています。
プッチーニの著名なオペラ「蝶々夫人」(ちょうちょうふじん)の主人公は、没落した氏族の娘であり米兵の日本人妻となっています。彼女は夫には故国に正式な妻があることを知り、自らの名誉のために懐剣で喉を突いて自害してしまうのです。
長柄武器の中でも、平安時代に登場、南北朝時代に大流行し、合戦の主役となったのが「薙刀」でした。
もとは「長刀」と書きましたが、のちに短刀に対して打刀を長刀と呼ぶようになり、区別するために薙刀の字が当てられるようになりました。
先の方の反りが大きく、鋒/切先が鋭く尖った刃を長柄の先に装着して用いた武具です。同じ長柄武器の「槍」(やり)が突くことを主な攻撃方法としているのに対し、薙刀は振り回して薙ぎ切って使います。
刃長1尺3、4寸(約40cm)から2尺(約60.6cm)を超える物も。柄の長さは、通常3尺から6尺(約90~180cm)程度です。柄の断面は、正円形でなく楕円形とされています。刃の反対側に装着された金具である「石突」(いしづき)が半月形状になっており、こちら側でも斬ることができる物が多いのも特徴です。
薙刀には、小さな鍔が付いている物が主流で、鍔のない物や刀剣に付いているような大きな鍔が付いている物もまれにあります。
大薙刀に対して、刃長が3尺(約90cm)程度までの物を小薙刀(こなぎなた・しょうなぎなた)と呼びます。室町時代になると刃長が短縮。江戸時代には婦人が薙刀を使用するようになったため、小薙刀が一般的になりました。
薙刀の誕生の経緯については、はっきりとしたことが分かっておらず、以下のような説があります。
なお、最初から薙刀ではなく、薙刀直しのような形式を持つ日本刀として制作された物が「薙刀直し造り」です。薙刀直しの代表例としては、小薙刀を「磨上げ」(すりあげ)て脇差にした「鯰尾藤四郎」(なまずおとうしろう)が挙げられます。
「ふくら」(鋒/切先がカーブしている部分)が、ふっくらとしている様子が鯰を連想させることから、このように呼ばれる1振。豊臣秀吉や「徳川家康」などの天下人の手を経て、徳川家康の遺品として「尾張徳川家」に伝来した薙刀です。元々の小薙刀の作者は、鎌倉時代中期に活動していた「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)で、相州伝の「正宗」(まさむね)、越中の「郷義弘」(ごうのよしひろ)と共に「天下三作」(てんがさんさく)の名工と称されました。薙刀には反りの深さや形状などから、いくつかの種類があります。
静形薙刀(しずかがたなぎなた)は、長さや形状などに特にはっきりとした定義はありませんが、身幅が狭く、反りの少ない伸びやかな姿をした薙刀です。別名を男薙刀と呼び、源義経(みなもとのよしつね)の愛妾・静御前(しずかごぜん)の由来にちなんでいます。
巴形薙刀(ともえがたなぎなた)は、長さや形状などに特にはっきりとした定義はありませんが、身幅が広く、反りの大きな張りのある姿をした薙刀です。木曾義仲(きそよしなか)の愛妾・巴御前(ともえごぜん)にちなんでいます。別名で、女薙刀とも呼ばれている薙刀です。
「長巻」(ながまき)を薙刀に含めるかどうかは、研究者により見解の分かれるところですが、その形状から薙刀と区別の付けづらい長巻も存在します。
大太刀から発展し、振るいやすくするために柄を長くした日本刀であるという見方と、薙刀の中でも反りが少なく、刃長が長い物を、補強のために柄を紐で巻き締め、長刀に対して長巻としたとするなどの諸説あり、定まっていません。
薙刀と言えば、「武蔵坊弁慶」(むさしぼうべんけい)が振り回して戦うイメージが鮮明に浮かびます。その弁慶が愛用したと言われるのが、「三条小鍛冶宗近」(さんじょうこかじむねちか)の作と伝わる「岩融」(いわとおし)です。
刃の部分だけで3尺5寸(約106cm)ある大薙刀だったと言われています。もっとも、弁慶が振るうのは大薙刀ではなく太刀である「岩透」(いわとおし)だったとする説も存在。4尺2寸(約127.2cm)の長さがあったと言いますから、大太刀に分類されます。
弁慶の存在自体は確実ではなく、伝説上の人物と見るのが有力で、岩融も岩透も、現在はその所在が不明であるため、伝説の日本刀であるという位置付けです。もっとも、愛媛県にある「大山祇神社」(おおやまづみじんじゃ)では、弁慶が奉納したという大薙刀を所蔵。この大薙刀は、国の重要文化財に指定されています。
日本刀とは、広義では「日本国内で作られた刀剣類の総称」ですので、武士が腰に差す日本刀だけでなく、長い柄の先端に刃物(穂)を装着し、突き刺して攻撃する槍についても、広い意味では日本刀です。
槍は、刺突を主な目的とした武器で、人類の歴史上最も古い武器のひとつとされています。銃剣に取って代わられるまで、長く使われましたが、日本の歴史において槍が登場するのは、鎌倉時代中期以降です。日本では古来より鉾が使用され、平安時代から南北朝時代までは薙刀が主力武器となっていました。
戦国時代の徒歩での集団戦には、それまでの薙刀のように振り回して薙ぎ切る武器は不向きでした。そこで、突き刺して攻撃する槍の方が実戦向きとされ、槍が合戦の主役に躍り出たのです。
江戸時代の大名行列の先頭は槍で、武士の象徴でもありましたが、明治維新後は日本軍が武器として採用せず、その後は実戦で使われていません。
刃長1尺(約30.3cm)から2尺(約60.6cm)が通常の槍です。まれに2尺を超える物があり、「大身槍」(おおみやり)と呼ばれました。
槍の穂(槍の刃の部分)の断面の形状は、「正三角形」・「平三角形」・「刀身形」・「両鎬」(りょうしのぎ)の4種類があり、両鎬の槍は突く以外に斬る機能もかね備えています。実戦に応じて多彩な発展を遂げたため、様々な形態の物があるのが特徴です。
刀剣を鑑賞する場合、反りの大きさ等で、ある程度作刀年代が推測できますが、槍の場合もある場所を観れば、作刀年代が分かります。それが槍の穂と柄が接する部分で、「けら首」と言います。研ぎに手間がかかる場所で、ここが見事に研がれた槍には、なかなかお目にかかれません。このけら首の長さは、作刀年代によって変わります。槍が合戦に登場してまもなくの鎌倉から室町期頃の「けら首」は長く、逆に江戸慶長期以降の新刀期では短い物が主流となっていくのです。
刃や柄の長さ、穂先の形状などから、様々な種類があります。
大身槍(おおみやり)は、刃長が2尺(約60.6cm)前後の大型の穂を持つ槍。なかには4尺(約120cm)を超える物もあります。両刃で殺傷能力が高く、刺すだけでなく斬る攻撃が可能ですが、長さと重量があるため扱いが難しく、技術が必要でした。
直槍・素槍(すぐやり・すやり)は、長い柄に枝刃のない直線的な両刃の穂先を付けた槍の総称となります。
菊池槍(きくちやり)は、肥後国(ひごのくに:現在の熊本県)の豪族・菊池氏が使用した物で、槍の起源とされています。穂先は片刃で短刀の形をしており、現場で得た竹や堅木に装着して即席の槍を作り出すことができる便利な物でした。
鎌槍(かまやり)は、直槍のような両刃の穂の途中に鎌と呼ばれる枝刃が張り出している物で、敵の脚を斬るため、深く貫きすぎないためなどの用途で付けられたと言われています。
両鎌槍(りょうかまやり)・十文字槍(じゅうもんじやり)・十字槍(じゅうじやり)は、鎌槍の中で、枝刃が両側に十字架状に張り出している物です。
左右の枝刃の長さが違う「片鎌十文字槍」、鳥が飛び立つ様子に似た「千鳥十文字槍」、枝刃を取り外して直槍のようにも使用できる「掛け外し十文字槍」、左右の鎌が上下向きになっている「上下鎌槍」(卍鎌槍:まんじかまやり)などがあります。制作にコストがかかるので、主に大将が使用しました。
十文字槍の使い手として、思い浮かぶのが「真田幸村」(真田信繁:さなだのぶしげ)です。「大坂夏の陣」では、朱色の十文字槍を手に馬に乗って徳川家康の本陣に突撃し、「馬標」を倒すほどの活躍を見せ「日本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と呼ばれたことは良く知られています。
十文字槍は、三方向に刃が向いているため、扱いが難しく、熟達した腕を持つ武将のみが手にすることができる武器。真田信繁が手にしていた朱槍は、武功を挙げた者が手にできる物であったため、その腕前は確かな物であったと言えるのです。
通常の槍は、穂に付いた茎を柄に差し込みますが、「袋槍」(ふくろやり)は、逆に鉾のように「袋穂」(ふくろほ)と呼ばれる空洞部分を柄の先端にかぶせて使います。菊池槍と同じく、長い柄を用意しなくても、現場で得た竹や堅木を利用できるという利点があります。
笹穂槍(ささほやり)は、穂が笹の葉のような形をした槍です。
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