そして、彼らのクリエイティビティは「承認」によって逆算される

どこか懐かしささえ感じる話題だけれど、これから思い至る人もいるんだろう。

“消費の時代”から“生産の時代”へ

米を作る。米を食べる。生産と消費。ひと昔前までは単純な話だったように思う。それがいつのまにか、いわば「」付きの「生産」になり始めた。大雑把には「モノ」の生産が飽和することで「価値」の創出が重視されるようになった。有形無形の「価値」を生み出すこと。それも「生産」の意味になった。ターニングポイントはそれこそ大量消費も極まったバブル期あたりだろうと思う。さんざんいい古されたことだけれど、当時の「イケてる」人々が身にまとっていたのは服や時計やバッグといったモノそれ自体ではない。それらのモノに対してあの時代が担保していた「価値」である。だから、消費者にとってもそれは単純な消費行動ではなかった。

こうして消費者の「選択」が重視されるようになると、「選択」自体が表現行為と見做され始める。もちろん、「価値ある表現」にも流行はある。多くの同時代人が同じブランドの服を着、同じ店に行き、同じ雑誌、同じ本を読み、同じテレビ、同じ映画を見る…それが「流行に敏感なわたし」という価値ある表現だった時代もあった。それに飽きると今度は「みんなと同じはダサい。個性的じゃなくちゃ」みたいな考え方が台頭してくる。そうはいっても、「これが個性的なアイテムだ」という情報は各カテゴリにちゃんと用意されていて、いま風にいえばクラスタが細分化していっただけの話だ。どのクラスタにも属さず理解もされない個性に価値はない。

「生産」と「消費」のメタ化。両者の区分が曖昧になってしまった一因はこれだろう。素人が売り物になる米を作ることは難しい。けれども、米に新しい価値を付与するような消費方法を編みだすことはできるかもしれない。何をどんなスタイルで消費するかによってモノの価値が変わる。こうして「新しい消費スタイルを創出する」というクリエイティビティが顕在化していった。いわば「創造的な消費」の台頭である。これは「生産」の質をも変えてしまった。「米に新しい価値を付与する」という仕事が成り立つようになった。いや、最近の風潮だと、むしろ米自体を作るよりこちらの方が本流、それこそ「カッコいい生産」だと思われている気がする。

いまや、その行為が「消費」か「生産」かを問うことにさしたる意味はない。昔からある「同人」活動などを見ても、視点の置き方ひとつで「消費」とも「生産」とも取れる。もはや、極めて文脈依存的、あるいは、単純に恣意的な区分でしかない。ニコ動のあれやこれやも同じだろう。どちらの文脈で語るのも容易だ。そして「カッコいい生産」がいまの流行だというなら、当然その流行だって生産者たちのメシのタネになっている。彼らは「これであなたもかっこいい生産者になれますよ」という仕組みなりサービスなりを考え出す。彼らの目には「カッコいい生産者」たちも、流行の価値に飛びついてくる「消費者」の群れにしか見えないだろう。

世に溢れる「カッコいい生産者」たちは、一部の運や力に恵まれた例外を除けば、さしたる対価を得ているわけではない。文筆にしろイラストにしろ音楽にしろウェブサービスにしろ、そのほとんどは情報の大量摂取によってすでに陳腐化した程度のクリエイティビティにすぎない。もっといえば、陳腐化の波はプロの裾野さえ侵しはじめているように見える。「カッコいい生産」に対するほとんど唯一の対価は、ウェブのおかげで手軽になった「承認欲求」の充足くらいのものだ。もっといえば、冒頭のブログ主のような人が、自らの行為を「生産」と位置づけて楽しそうに語ることができるのは、ウェブで得た「承認」が根拠になっている可能性が高い。

居酒屋談義もウェブにのせればクリエイティブ。これは必ずしも皮肉ではない。

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