#Appendix2.「泣き寝入り」という言葉の暴力

 

1999年2月19日朝日新聞論壇掲載 高橋りりす投稿

 性的被害について語られる時、必ずといっていいほど使われる言葉に、「泣き寝入り」がある。
 私は十六年前、米国の大学院に留学中に指導教官からセクシュアル・ハラスメント(性的な人権侵害)を受けた。学内のセクハラ相談窓口に訴えたが、納得のいく対応をしてもらえずに終わった。
 帰国後、辛かった経験を反性暴力運動に役立ててほしいと考えた。だが、「裁判も起こさずに泣き寝入りをした人の話は聞く必要がない」と言われ、運動家たちに受け入れてもらえなかった。いま私は、この体験をもとに一人芝居「私は生き残った」をつくり、演じている。
 運動家たちの態度を、私は当初、「泣き寝入りをしないで裁判を起こして下さい」という弁護士の言葉を短絡的に解釈した結果だととらえていた。しかし、「泣き寝入り」という言葉自体に問題があるのではないかと思うようになった。
 性暴力に関するシンポジウムやチラシ、パンフレット、新聞、雑誌、書籍などには、驚くほど頻繁に「泣き寝入り」という言葉が使われている。「泣き寝入りをしないでください」「泣き寝入りをしなかった勇気ある女性」「もう泣き寝入りはしない」「泣き寝入りをしないために」など、いずれも「泣き寝入りをするのは悪いことであり、泣き寝入りをしないことがよいことである」というメッセージが含まれている。
 一方、傍観者の場合は「見て見ぬ振りをする」と言う。加害者のほかに責められる人がいるとすれば、それは「見て見ぬ振り」をする傍観者であろう。ところが、こちらの方はあまり取り上げられない。反性暴力関連で、「見て見ぬ振りをしないでください」とか、「もう見て見ぬ振りはしない」とか、「見て見ぬ振りをしないためのハンドブック」などという表現を、私は見たことも聞いたこともない。傍観者よりも、被害者の責任がいつも強調されている。
 性暴力に関するシンポジウムなどで、専門家と呼ばれる人たちは「泣き寝入りをしないでください」という類の言葉をさんざん言ってきた。だが、これは私に言わせると、暴力的でさえある。なぜなら「泣き寝入りをしない」とは、加害者や、その味方をする人があきらめない限り、際限のないことであるからだ。裁判や警察に訴えたところで、それが認められなければ、次の手段を講じない限り、その人はそこで「泣き寝入り」したことになってしまう。「泣き寝入りをするな」とは、相手がついに非を認めない限り、「死ぬまで闘え」ということになる。
 「泣き寝入りした」と言われる被害者も実際には必ず、なんらかの対応をしている。私の場合も人に相談したり、大学のさまざまな窓口に訴えたりした。もし大学側がきちんとした対応をしていれば、私は「泣き寝入りした」などとは言われなかったはずだ。つまり、「泣き寝入り」とは「被害者が何もしなかった」ことを表しているのではなく、「周囲がまともな対応をしなかった」という事実を表している。
 ところが、「泣き寝入り」という言葉は、被害者が必死の思いでやったいろいろな対応を、なかったことにしてしまう。「あなたは泣き寝入りをした」と、まるで被害者に責任があるかのように言われる。
 「泣き寝入り」という言葉は、被害を受けても声を上げられない状況、声を上げても回りが無視したり口封じをしたりする状況、それを許す社会や組織の責任を、被害者の責任にすり替えてしまう。「被害者が泣き寝入りをするから次の被害者が出るのだ」といった発言さえ、反性暴力運動の中から聞こえてくる。
 「泣き寝入り」という言葉を無自覚に使ってほしくない。本当に問題なのは、その言葉の背後に見え隠れしているものだ。
 それは、被害者への敬意と共感の欠如であり、責任転嫁の兆しでもある。専門家のみに意見を求め、被害の当事者を救済の対象としてしか位置づけてこなかった、これまでの反性暴力運動の体質に問題があるのではないだろうか。当事者も望めば発言できる環境をつくることが必要であるのに、反性暴力のプロジェクトには、発言者や意思決定に携わるメンバーとして被害者を加える配慮が欠けているのではないだろうか。

 


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