朝日新聞社説 米国とコーラン―寛容を取り戻すとき : asahi.com(朝日新聞社):社説

 これね。軽い気持ちで書いてしまったんだろうと思うが。

 米フロリダ州の小さなキリスト教会が、イスラム教の聖典コーランを焼こうと呼びかけている。今年の9・11の日に「邪悪な宗教」であるイスラムの危険性を知らせるのだそうだ。
 コーランの教えを信ずる人たちからどれほどの反発を招き寄せるか。だれもが想像できることだ。

 「「邪悪な宗教」であるイスラムの危険性を知らせる」は事実かどうか(そういう言明があったかどうか)ちと疑問。だが、イスラムの反発を招くは必定。で。

 自由で寛容な社会の構築は、米国の建国の原点である。初代のワシントン大統領は「米国は偏狭な価値観を認めず、迫害を助長することもない」との言葉を残している。教会の計画がこの理念に反するのは明らかだ。
 米国とイスラム世界との亀裂が広がることは避けねばならない。教会は今すぐ計画を撤回してもらいたい。

 これね、そのとおりなんですよ、なんだけど、同じことはイスラム側にも言えて、キリスト教徒が嫌だということをなぜするの?ということ。
 この問題、法的には存在していない。イスラムセンターを建築してもよいし、コーランを焼いてもよい。なぜいけないかというと、品位の問題。それを提起するという意味合いもある。キリスト教徒側のこういうやり方は下品極まるけど。

 世界貿易センター近くにイスラム教のモスクを建設する計画が住民の反対で暗礁に乗り上げている。異文化への理解を進める計画だが、9・11テロの被害者家族からは「息子の思い出への侮辱だ」という声が上がっている。
 中東や西アジアを中心に、イスラム教徒は世界に十数億人いるとされる。移民社会の米国にも数百万人が住み、数多くのモスクがある。宗教は異なるが、同じ社会に住んでいるのだ。

 だったら、場所を変えたら、ということ。ニューヨーク市長もそのあたりを落としどころにしてほしかったようだ。

 いまやイスラムとの共存なしには、米国はもちろん、世界の安全や繁栄はありえない。
 オバマ大統領は昨年、カイロ大学での演説で、コーランユダヤ教の律法タルムード、キリスト教の聖書を引用し、「世界の人々はともに平和に暮らすことができる」と呼びかけた。
 狭量な考えを排し、異なる文化を受け入れる寛容と度量をもつ。米社会はそんな伝統を取り戻してほしい。

 であれば、イスラムの指導者たちが、なぜあそこにセンターを作るのか。その意味は共存と平和なのだと語っているのかというと、それはなさそうに見える。
 朝日新聞は、ようするにキリスト教徒側の視点での、一種の転倒された優位を語っているにすぎないんですよ。そうでなければ、イスラム側があそこにセンターを作ることで、キリスト教徒たちの思いをどう考えるかという、そちら側の心情も配慮できるはず。
 誤解されるとなんだからいうと、私としてはセンターを作ろうがコーランを焼こうが「公」においては無問題。勝手にしたらということ。で、コミュニタリアン的に問題があるというなら、まさにコミュニタリアン的に話し合い、合意を探るべきなんじゃないの、くどいけど問題というなら、ということ。それは一義には、センターを作りたいイスラム側がキリスト教徒に、その意義が平和と愛であることをきちんと説明することだろうと思う。
 
追記
 ⇒はてなブックマーク - 朝日新聞社説 米国とコーラン―寛容を取り戻すとき : asahi.com(朝日新聞社):社説 - finalventの日記

dekaino かなり変。NY市がキリスト教徒しかいない街ならともかく、NYは全米で一番キリスト教徒の住民比率が低い土地。NY州にはイスラエル本国のユダヤ人より多数のユダヤ人が住んでるくらい。911犠牲者にはムスリムもいたんだよ 2010/09/1021 clicks ☆(blackdragon)☆(drnrvr)☆(morimori_68)☆(lightsider)☆(david_rice)☆(band_alpha)☆(fujiyama3)☆(Bouncyball)☆(gui1)☆(zionz)

 数は問題ではないですよ。数を問題にするdekainoさんの議論では多数という別の問題をになります(キリスト教徒が少ないなら問題はない、わけではないでしょう)。そして、「911犠牲者にはムスリムもいたんだよ」はどういう意味を持っているのでしょうか? おそらく私に向けて異論を語っているおつもりなのでしょう。しかし、問題はそういう私とdekainoさんの間にはないのです。私はセンター設立にまったく反対していません(それをなすためにはどうしようという前提なのです)。であればdekainoさんの言葉は当地の、このセンター建設を深いに思う人たちへとなるでしょう。わかりますか? センターに、「我々もまたキリスト教徒もムスリムもいた911犠牲者を追悼する」といった趣旨があるのでそれをより明確にする世論を形成するようにすればよいのです。そのような対話をして、人びとの宥和をはかればよいではないですか。

tari-G これはひどい モスク建設は完全に自明の自由なので説明責任などない。イスラム側にまず説明責任があるというのはそれこそ差別/それより朝日は、まず自ら「クルアーン」と呼ぶことからはじめろ。 2010/09/11

 これはけっこう表層的な誤解。私は説明責任などあるとは思っていませんよ。法的にまったく問題ないと述べています。「イスラム側にまず説明責任があるというのはそれこそ差別」はまったくの失当です。

yoshikogahaku この二つが併置されるのもリンクされるのも政治化されただけでしょ。モスクなんてそこら中にあるし、攻撃的意図で建てる奴はいないわな。焼くのは明白に嫌がらせでしょ。それとも寒いから焼くの? 2010/09/11

 政治化しないためにコミュニタリアン的な対話が望まれるということ。「モスクなんてそこら中にある」は当然というか国防省内にも礼拝所がある。「攻撃的意図で建てる奴はいないわな。焼くのは明白に嫌がらせでしょ。それとも寒いから焼くの?」といった主観からは、コミュニティの宥和が難しいということ。

 さて。
 私は思うのですが、私はイスラム教に改宗してもいいかなと思ったことがあります。愛と平和の宗教としての憧れがあるからです。ムスリムイスラムの教えと行動を通して世界に愛と平和を伝えることに敬意を持っています。そういう視点からすれば、ニューヨークの人びとアメリカの人びとにもそれをできれば上手に伝えるべきではないかと思うのです。
 ではここで一曲⇒YouTube - Yusuf Islam - Don't Let Me Be Misunderstood (Live Yusuf's Cafe Session 2007) + Lyrics