「話し合って決める」という幻想

お気づきの方も多いと思いますが、ちきりんはネット上で議論をしません。

ブログで、トラックバックを使って他の方の主張に議論をふっかけることもないし、ふっかけられた議論を受けることもほとんどないです。

私のブログは、私の考えたこと(思考、主張)を広く開示しているだけのものです。

ツイッター上でも「会話」をすることはあるけど、「議論」はしないです。

ネット上で議論をしない最大の理由は非効率だから。別の言い方では「時間の無駄だから」


140字という制限があるツールは議論をするのに向いてないし、議論の重要な前提となるべき過去の発言もどんどん流れていってしまいます。

そしてなにより、議論の相手のことが全くわかりません。もしかすると相手は小学生かもしれないのです(いろんな意味で)。


文字制限のないブログでさえ真意が理解できる文章を書くのは難しいし、議論というのは「しきり役」がいないとどんどんズレてしまうものなので、遠く離れてボールを投げ合っていても、ほとんど噛み合いません。

このように、ネット上で議論をしない理由は「あまりに非効率で耐えられないから」なのですが、実はリアルの社会でも私は「議論をして結論を出す」ことにあまり重きを置いていません。


一度、ゼロから考えてみましょう。いったい「議論する意味=目的」はどこにあるのでしょう? 

合意すること? 意見をまとめること?


世の中のすべての人の意見が「一致する」などということは起こりえません。

いくら話し合い、議論しても、結果としてみんなの意見が一致した、などということは、ほぼないんです。

起こりうるのは「一部の人に、自分の意見を放棄させる」ということだけです。


話し合って合意に達したように見える状況を思い浮かべて下さい。

そこで起こったことは、「議論を通して、全員が同じことを信じるようになった」ということではありません。

一部の人が「まあいいや、お前の判断に従おう」と考えたから合意に至ったのです。

「今回はそっちの方法でやってみようと思った」というだけです。


一緒に会社を経営しているとか、夫婦が子供にお受験をさせるかどうかを決めるとか、「合意に達する必要がある時」もあります。

こういう場合に行われる議論の目的も「話し合っている人達の意見を同じにする」ことではありません。

目的は、「他者の意見を知ること」と「可能ならば、相手に自分の意見を放棄させる」ことです。

そして最後は(全員の意見が同じにならなくても)多数決で結論を決めます。それが「民主主義」のルールだから。

もしくは夫が「まあいいや、妻に任せよう」と諦める場合もあります。この場合も「議論して意見が一致した」わけではありません。夫が諦めただけです。


議論したら、心からわかり合え、みんなが同じことを信じるようになる、なんてのは幻想です。

いろんな意見をみんながバラバラに主張し、最後にどうするかは選挙で決める、つまり、

少数派の意見は参考意見として尊重されるかもしれないけど、最終的には数の少ないグループの人は、自分の意見を通すことを諦める」のが、民主的な意思決定の方法なのです。


ただし、知識と思考は違います。

知識は、どちらかが完全に思い違いをしている可能性があるので、正しい知識が目の前に運ばれれば、双方の意見は一致するでしょう。

私が上で言っているのは、知識ではなく思考の話です。

人の「考え」は、少々議論したくらいで同じになったりはしないのです。


私はよく「多様性を尊重すること」の重要性を書いています。

それはまさに「話し合って、議論して、誰かの意見を放棄させる必要はない」という意味です。

「多様性を尊重すると言っているのに、なぜ議論に応じないのか?」と言ってる人がいますが、それは反対です。

多様性を尊重したいからこそ、議論しないのです。議論して、どっちかがどっちかを説得するなんて無意味でしょ? 

せっかく二つの異なる意見があるのに、なんでわざわざ時間を掛けて「ひとつの意見」だけにしてしまう必要があるんでしょう?


討論番組とかでよく起こっていますが、そういうことをすると、「議論に強い人の意見」が「正しい意見」になっちゃうんです。

それってすごい不毛。

もちろん私も、「オレの趣味は議論することなんだ!」という人が集まって、延々と議論を続けることに反対はしません。

「議論同好会」は、それなりに人気のあるサークルです。趣味としてはコスパもいい。

ただ、「あたしの趣味は議論じゃないんで」というだけです。


先日、phaさんの『ニートの歩き方』を紹介しましたが、「働くべき」、「働かなくてもいいだろう」みたいな議論は意味がありません。

みんな好きにすればいいんです。


昨日は不妊治療について書きましたが、「そこまでして子供をもつ必要があるのか」とか「血縁にこだわらず、養子縁組をして子供を育てたらどうか」という意見もあります。

一方で「なんとしても自分の子供が欲しい」という人もいます。

こういうことについて「議論して決める」必要はありません。

相手を説得する必要など、誰にもない。

みんな自分自身が、自分の考えるように生きればいいだけです。


原発反対、推進も同じです。

両者とも自分の意見を声高に主張していればいいと思いますが、議論や話し合いで、どちらかが説得されるなんてありえません。

決めるのは「多数決」なんです。

選挙で推進派の人を選べば再稼働になる、そういう人が選ばれなくなれば、当然、脱原発に向かうでしょう。それだけです。


「話し合って決める」というのは、お花畑的幻想です。「話し合えば、相手も自分の意見と同じになるはず」などと思うのは、傲慢です。

話し合って決まるのは、「今回はどっちが意見を放棄しましょうか?」ということだけなのだから、順番に譲り合ってもいいし、多数決で決めてもいい。決める人が責任を負う、ということでもいい。

フェアな議論とか言われているものは、「どっちかだけが諦めるのは不公平なので、双方の諦める量を同じにしよう」というルールに過ぎません。

双方が半分ずつ諦めて「足して二で割る」とか、双方が全部諦めて、第三者の意見を採用する、というのがその事例です。


「話し合って決める」という幻想を押しつけることは、「多様性の否定」につながります。「ひとつの意見だけが正しく、後は間違っている」と考えるのは恐ろしいことです。

みんな、自分の好き勝手なことを言っていればいいんです。



そんじゃーね。


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