名だたる蔵書家、隠れた蔵書家


今年のNHK大河ドラマ平清盛」で保元の乱から平治の乱へと続くわけだが、その主役たる藤原頼長山本耕史)と藤原通憲信西阿部サダヲ)は、学者・読書家としての一面があることに触れておきたい。


名だたる蔵書家、隠れた蔵書家

名だたる蔵書家、隠れた蔵書家


佐藤道生編『名だたる蔵書家、隠れた蔵書家』(慶應義塾大学出版会,2010)に、藤原頼長がとり上げられている。頼長は単なる「悪左府」ではない。


頼長には『台記』という日記が残されていて、住吉明彦「藤原頼長の学問と蔵書」によれば、

康治二年(1143)、二十四歳のの九月三十日に、読了の書がすでに一千三百巻に達したことを述べ、その「所見之書目」七十一種を列挙し、保延二年(1136)から当年に至る八年間の読書の跡を、細かに記している。ここに挙げられた書目は全て漢籍、中国人の著作であり、当時、正統な学問の対象となる本はまず漢籍であったことが示されている。(p.32)

と記述されている。

中世の書物と学問


また、小川剛生著『中世の書物と学問』(山川出版社,2009)によれば、


中世の書物と学問 (日本史リブレット)

中世の書物と学問 (日本史リブレット)

強烈な個性と学問好きで知られる藤原頼長は、自らの蔵書に意を用いた人である。台記の天養二年(1145)四月二日条には、大炊御門高倉邸に文庫を建造したことが記されている。(p.044)

頼長の文庫は主人と運命を共にしたと思われるが、当時の文庫の構造や蔵書管理について、これほど詳しく書いた文献は空前絶後である。(p.045)


つまり、藤原頼長とは、読書家であると共に、学者・蔵書家であったわけで、今日でいえば、書物オタクと表現できよう。棚橋光男によれば「当時の日本社会の最前線ー最近はやりの言いまわしを使えば、《知の最前線》で把握していた」*1と評価されるほどであった。


その頼長に経学を指導したのが、信西であり、保元の乱での対立は、悲劇にほかならない。平治の乱で他界する信西には、のちに『通憲入道蔵書目録』が編纂されている。


頼長の『台記』、信西の『通憲入道蔵書目録』に記載されている漢籍には、宋との関係性が反映されている。中世漢籍学者の代表たる二人が、政治の世界で、武装した源氏・平氏の武士達に殺害されるのは、歴史のアイロニーというべきか。


NHK大河ドラマ平清盛」には、当時の学問や読書の様子が詳しく描かれていないけれど、知識人の蔵書が戦乱の中で消滅したことは、別の視点からみることを要請しているようだ。



後白河法皇 (講談社選書メチエ)

後白河法皇 (講談社選書メチエ)

*1:棚橋光男著『後白河法皇』(講談社,1995)p.53