地頭というもの

8年も前になりますが、私は「the Entrepreneur」という起業家インタビューのサイト向けに、次のように話したことがあります--僕は慶應義塾大学出身ですが、幼稚舎から慶應にいるような人達は受験勉強をやってないからか学校で学ぶような知識レベルはそう高くはないが、地頭がいいことが多いと感じました。天賦の才、また家庭や学校での教育環境はかなり本人の知識レベルや思考力に影響があると思うんです。

国語辞書を見ますと、此の地頭とは「大学などでの教育で与えられたのでない、その人本来の頭のよさ。一般に知識の多寡でなく、論理的思考力やコミュニケーション能力などをいう」と書かれています。あるいは、例えば「NAVER まとめ」に「地頭力とは何のこと?」というのがあります。そこでは地頭力の定義として、「仕事を深堀していく能力のこと」、「問題解決に必要となる考え方のベースとなる能力」、「素手で考える力。知識も方法論もあらゆる引きを持たずにゼロベースで考える力のこと」等が挙げられています。

私自身は地頭の良し悪しとは基本、気が利くか否かを指しているのではないかと考えます。の各部位には、記憶を司る側頭葉やイノベーションを齎すとされる頭頂葉および前頭葉等々、色々な役割があるわけですが、世間一般で言う地頭力が高いとは、物分かりが早く様々な事柄に気転が利いたりすることを言うのだと思います。

此の地頭の良い人の特長として、あるブログ記事(18年2月13日)では、「同じ情報に接していても、そうでない人に比べて、そこから読み取ることができる情報が桁違いに多い」とか、「一を聞いて十を知る」ということが挙げられています。そして『「自分の好きなものをつきつめること」に、「地頭を鍛える」ことの鍵が隠されているのかもしれない』との言葉で結ばれています。

先ず前者の一を聞いて十を知るとは、幾ら地頭が良くても少し無理があるかもしれません。『論語』の「公冶長(こうやちょう)第五の九」にも、学を好む「回(かい:顔回)や一を聞きて以て十を知る。賜(し:子貢)や一を聞きて以て二を知る」という子貢の言があります。之に対し孔子は謙遜して「吾(われ)と女(なんじ)と如(し)かざるなり…私もお前と同様に及ばないよ!」と応じるわけですが、やはり日頃から色々な知識を得それだけのバックグラウンドを持って鍛えてないと難しい部分があるでしょう。

他方後者に関し、地頭を鍛える上で自分の好きなものを突き詰めて行くことは有り得ると思います。『論語』の「雍也(ようや)第六の二十」に、「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」という孔子のがあります。一つの事柄に集中し楽しんで突き進んで行けたならば、それが何事であっても地頭を鍛えることに繋がりもするでしょう。これ即ち、一芸に秀ずれば結果として万芸に秀ずる、のです。

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