高校からサッカーを始めた少年は気づいたらプロになっていた……西部洋平が今も夢に見る運命の一戦

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回は清水エスパルス所属でプロ生活20年を超えた西部洋平さんにお話を伺いました。高校からサッカーを始めたという規格外の逸材っぷり、すさまじい重圧だった浦和レッズ時代のJ2最終戦、さらに移籍を通して気づいたJリーグの環境についてなど、貴重なエピソードをたっぷりと話していただきました。 (清水のグルメランチ

高校からサッカーを始めた少年は気づいたらプロになっていた……西部洋平が今も夢に見る運命の一戦

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高校に入学してからサッカーを始めた

2年目には全国高校サッカー選手権大会に出た

3年目で偶然スカウトの目に止まり

4年目にはプロサッカー選手になっていた

 

そんなシンデレラストーリーを歩んできた西部洋平だが

20年を超える現役生活で苦しいことは何度もあったという

今でも夢に見るという試合の話や

太公望が勧める寿司の店を聞いた

 

高校からサッカーを始め、気付いたらプロになっていた

2018年で現役生活20年を迎えました。この前、母親に電話したんですよ。「元気ですか?」って。そうしたら母親もしみじみ言ってましたもん。「よく続いたな」って。

 

そんなメンタルが強いわけでもないっていう僕の性格もよく知ってるから、そういうのも含めての想いなんでしょうね。自分でもビックリですもん。やれると思ってなかったんで。人に恵まれました。本当に。サッカーを始めてプロに入って、出会う人がみんないい人で。本当に周りの方に育てられました。

 

ここまで、僕は基本的にサッカー以外で辛いことがなかったんです。私生活で悩むこともなかったし、ネガティブなことを考えることもないし。人生自体は楽しいし恵まれてます。いいことばっかり。

 

もちろんサッカーがあってのことだとは思うんですけどね。だからなおさらサッカーでそれだけキツいことはありますけどね……最初はまず高校のときですかね。

 

サッカーをやり始めたのは高校からなんですよ。中学のときは体育の授業でやってたぐらいで。でも運動神経はよかったんで、中学の先生が「スポーツ推薦で高校を受けてみようか?」って言ってくれて、「それで受けてみます」ってセレクションを受けたのが最初だったんです。

 

僕が受けに入った帝京第三高校って、当時山梨県で全国高校サッカー選手権大会に出るといったら、韮崎高校か帝京第三というレベルだったんです。でも僕はそれすら把握してないような状態で。

 

どれくらいのレベルの選手が来るのかを全く知らずに行って、蓋を開けるとどこどこの選抜、どこどこで超有名、そんな選手が揃ってて。僕は本当にド素人だから中学時代の成績なんてないし。そこに飛び込んだんです。

 

GKだけの練習のときはひどいものだったと思います。でもスポーツテストがあったんですよ。何メートル走みたいな。それが全部ダントツでトップを取れて、そのまんまタイミングよく入学したんです。

 

身長は高かったんで、同じスポーツ推薦でもバスケットとかバレーボールとかの選択肢もあったのかもしれないですけど、他のスポーツに行かなかったのは、中学で推薦入試を進めてくれた先生がサッカーの顧問だったんで(笑)。

 

まぁそれ以外に先生は総合的に僕のことをいろいろ見てくれてたと思うんです。僕を導いてくれた恩師だなぁって感謝してます。その先生がそうやって言ってくれてなかったら、今、自分が何やってたかわからないですね。

 

高校に入ったとき、同じ学年でGKが8人いたと思います。GKは1年生から3年生までで20数人、多かったですね。フィールドプレーヤーまで入れた1年生全体だと70人ぐらいです。

 

まだ僕の時代は上下関係もしっかりしていて、辛いことが多かったですね。それで辞めていく人が多くて、1年生のGK8人は最後4人になって。それぞれの学年で半分ずつぐらいになって全体でGKは10数人になってました。1年生全体でも最後に残ったのは30人ぐらいでした。

 

高校1年生の1年間はほぼ走りですよ。毎日10キロぐらいは走ってたと思います。典型的な高校サッカーの厳しい練習でした。先輩の手伝いしてグラウンドの整備して。体力的なところ、人間的な部分をまず1年間鍛えるって。

 

でももちろんどこかの選抜だったという同級生は、先輩と一緒にバンバン練習してて。僕はそんなレベルじゃなかったんで、まず走り込みして、先輩のことやって、グラウンドに残って、ちょっと時間があったらGK練習やらせてもらってって感じでしたね。1年間は。

 

学校のグラウンドは当然土で、GKのプレーするエリアをグラウンド整備でゴリゴリ掘って、柔らかくするんです。それでもやっぱり固いんで、膝パンパンに腫れたり、腰に青あざができて。当時はそれが当たり前でしたね。

 

1年のときはキツくて何回も辞めたいと思ったんです。寮生活をしてたんですけど、2段ベッドで、先輩が下の段で自分は上だったんです。起きると壁が目の前で、入学から3カ月ぐらいはキツくてホームシックにかかって、壁を見る度に涙が出てきて。

 

そこから最後は意地みたいになって、「絶対辞めてたまるか」って。大人じゃなかったんで、辞めたらどうなるとかそういう将来の心配じゃなくて、ただ何かもう、がむしゃらにやってましたね。辞めてたまるかって、それだけで。

 

入学したときって、GKの中で余裕で最下位ですよ。今でも親友のヤツもいて、彼は大阪で超有名だったんですけど、身長が182センチぐらいなのに、体重が100キロぐらいあったんですよ。太ってたんですけど、やっぱり技術とかがしっかりしてて、そいつにも全然及ばないレベルでした。何もできない。

 

でも後々GKコーチだった先生に聞いたら、僕は「何もクセがない状態だったから、『こうだよ』って言ったらどんどん吸収していって、めちゃくちゃ教えやすかった」って。それがよかったって言われました。

 

高校に入ってきた時点で、自分のスタイルが出来上がってる子が多かったみたいですね。だけど僕はある程度運動神経がよくて吸収するから、「これはもうバンバン成長するな」って思ったって言われました。

 

今でもちょっと不思議な感じですけど、高校2年になって2、3カ月したら、もう試合に出てたんです。1年間はほぼ体力作りして、ちょっとだけGKの練習をしてたんですけど、その中でもうまくなってるって実感は自分としてあったんです。

 

そうしたら3年生のGKもいたし、誰がケガしたってワケではないのに試合に出してもらえて。そのまま2年のときも高校選手権も出してもらって、2年の終わりには関東選抜に入って。コーチに感謝ですよ。

 

高校3年のときのインターハイで、Jクラブのスカウトの人が相手チームのFWを見に来るという試合がたまたまあったんです。そうしたらその試合、偶然僕が当たりまくってて、それで目に留めてもらったんですよ。

 

何チームかオファーをいただいたんですけど、浦和はGMだった横山謙三さんに誘っていただいて。元日本代表GKで、元日本代表監督に声をかけてもらったという縁があって1999年、浦和レッズに行くことになったんです。

 

信じられないというか、うーん、何かもう、気付いたらプロになってたような感覚で、技術なんかまだまだなんだけど、プロに入った若造みたいな感じでした。

 

今も思い出す運命の最終戦

その当時というのは、ちょうどGKに求められるプレーの変化が始まったころでした。足下の正確性が求められるようになったんですけど、正直、全然足下の技術はなかったと思います。ただ、「これは止められない」っていう場面でのセーブを何度か見せられたんで、それで関心をつないでもらったんだと思うんですよ。

 

それで浦和に入ったら、そこでも出番が2年目に来たんですよ。浦和では1年目の1999年にJ2に落ちたんです。それで2000年、J1昇格を争ってたんですけど苦しくなって、横山さんが途中から監督になったんです。

 

残り7試合というとき、試合の1週間前に横山さんから「お前、ヒゲ剃ってこい」って言われたんですよ。「お前、サッカーできなくなるかもしれないから、ヒゲ剃ってこい。覚悟しとけ」って。

 

「やべぇ、オレ2年でクビになっちゃうのかな」と思って。横山さんは優しい方だったんですけど、僕の中では怖い方で、ヒゲを剃って身だしなみをちゃんとして、心入れ替えなきゃいけないとグラウンドに行ったら、「次の試合に出すぞ」って。

 

「え〜、そういうことだったのか」と思って。「J1に上がれなかったらお前もこの先、サッカーできるかどうかわからないぞ」っていうメッセージだったんです。

 

それで結局、最終節のホームのサガン鳥栖戦まで昇格できるかどうかもつれたんです。その試合にも出場したんですけど、これが大変な試合になって。僕たちはどんな形でもいいから勝てば昇格だったんですけど、引き分けか負けだったら大分に逆転される可能性があったんですよ。

 

後半開始早々の45分に先制したんですけど、52分に僕と西野努さんのコミュニケーション不足で同点にされて、その後、僕たちは退場者を出してPKを取られてしまって。

 

そのPK、僕は思いっきり反対に飛んだんですけど、相手がシュートをポストに当ててくれて。あれは本当に神様がいました。PK外したのが大分から鳥栖にレンタルされてた選手でしたね。

 

それで延長に入った95分、土橋正樹さんのVゴールが決まって勝ったんです。最後もう僕の中では本当に時間が2分ぐらい止まってましたもん。シュート打った、うわーって。もう、あの試合は……忘れようにも忘れられないですね。

 

キツかったです。正直。使ってもらって。正直。チームには田北雄気さんや土田尚史さんという大御所がいらっしゃるのに抜擢されて。もうがむしゃらに、本当にがむしゃらってああいうことを言うんだなって。テンションだけ上げるみたいな感じでした。

 

辛いというかキツい……メンタル的にはキツかったですね。浦和のサポーターの方は今と変わらなかったんで、自分には責任もあったし、若いとか、そんな言ってられるような状況じゃなかったから、なおキツかったですけどね。でも、あの経験がなかったら今の僕はなかったんで。

 

19歳ですよ。それであの試合なんで。もう涙止まらなかったッスもん。浦和の人にとってもターニングポイントでしたからね。この前西野さんと会って、まだたまに連絡してもらってます。

 

鳥栖戦は今でもたまに映像が流れてみたりしますけど、よくやってたと思いますよ。正直、まだ試合に出られるレベルじゃなかったなって今振り返ったら思います。けど、勢いとか空気感を買ってくれたのかなと。そういうのも含めて人に恵まれてるんですよ。

 

試合のこと、よく夢に見ます。大事な試合の前にあの試合の夢を見るんですよ。自分の場面じゃないですね。正樹さんのシュートの場面がフラッシュバックするんですよね……。

 

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試合に使われなくても「変な態度」はとらない

2003年に半年だけ鹿島に行かせてもらったんです。都築龍太さん、山岸範宏さんといういいGKの方がチームに来て、レギュラー争いを半年間頑張って続けたんですけど、なかなか思うような感じじゃなくて。

 

そのときたまたま鹿島から、曽ヶ端準さんがいるけどどうですかって声をかけてもらって、じゃあいい経験にもなると思って「行ってみます」って。

 

そのあと、2004年から2005年までの2年間は浦和のレンタルという形で清水エスパルスに来たんです。それもまた僕の中では辛い時期で。そのときに僕は清水のことをすごく思ってたんですけど、結局レンタルだったんで。

 

「結局いつか、戻っちゃうんでしょ?」みたいな感じだったんですよ。それがまぁ……まぁ負けたとき、2万人から他のGKのコールをくらいましたからね。いやぁキツかったですね。それこそ24、25歳の若造だったんで。

 

もしかしたら、そのころが一番多分キツかったかもしれないです。サッカーやってきて一番メンタル的に追い込まれてましたね。何やっても認められない、結果を出しても別に認められるわけでもないし距離感もあるし。それがね。

 

それで2006年に完全移籍になって、かなり変わりました。そのへんからちょっとずつ、認めてもらえるようになって、って感じですかね。

 

その2006年、イビチャ・オシム監督のときに日本代表の合宿に呼んでもらったんです。体もキレてたし、本気で代表に入りたいって一番思ってた時期ですね。これまでの中では一番強く代表入りを願ってたんです。

 

でも代表は本当にポジション争いが厳しくて。ポジション争いではタイミングとかいろいろかみ合わないとダメですからね。しかもすぐ呼ばれなくなるし。そこからまた長い期間我慢があるし。GKって10年間レギュラー来ないかもしれないっていうポジションですからね。

 

結局その後は呼ばれることなく2010年まで清水でプレーするんですけど、正直にすごくシビアな話をすると、僕はお金に見合った活躍はできてなかったかなって、自分でそう思うし。

 

チームに対する還元ということで言ったら、確かに期待には応えられてなかったと反省してるし。それで2010年末で清水をアウトになったんだろうなって解釈してます。初めての「ゼロ提示」だったんですよ。30歳のとき。それでJ2の湘南ベルマーレに行くことになりました。

 

今思えばそれがよかったんですよ。クビになって湘南に行って気づいたことが山ほどあったから。湘南は、今はよくなったとは思うんですけど、やっぱりJ1に比べると練習環境なんかは大変で。

 

J1って本当に恵まれてたんです。J2からJ1に上がってきたクラブはキツいところがあるかもしれないけど、それでも恵まれてるし。それに気付かず自分のいる場所が普通だと感じてたから。

 

移籍して湘南でみんながやっている環境を見て、もう一回頑張ってみようって。30歳で僕は結婚したんですけど、一番どん底で結婚して、奥さんも付いてきてくれて、もう一回何かいい生活させてあげたいって思えたんです。そのときに。自分を見つめ直す、本当にいい機会になって。いい経験でした。

 

それで2012年に川崎フロンターレに移籍したんです。そのとき、いくつかお話しをいただいたんですが、川崎からのオファーにお金とか気にしないで決めちゃったんです。川崎は打ち合いとか、GKと1対1とか、すごくたくさんあるイメージで。

 

最後は個人の力で守らなきゃいけないという場面があると思って、これは自分のスタイルとしてすごくハマるだろうって。それから、今求められているGKとはどういうものかって考え始めたのは、川崎に行ってからでしたね。

 

最初は相馬直樹さんが監督で、途中から風間八宏さんがいらっしゃって。風間さんように独特な考え方の方と出会えたのも大きかったですね。守備の練習がないってことにはビックリしました。最初はセットプレーの練習すらなかったんですよ。「マジか?!」って思いました。

 

風間さんは相手にボールを取られなければ、相手のCKなんてないからって。それ、最初は困りました。実際に試合では相手のセットプレーあるし。「え? ゾーンで守るの、マンマークなの?」って。結局セットプレーで何度かやられたから、ちょっとずつ練習をやるようにはなったんですけど。

 

川崎の最後のころからケガが増えて、2016年に清水に戻ってきた後もケガをして。それまでほとんどケガがなかったから、ケガに悩まされたことがなかったんです。清水はJ2だったから「試合に出てJ1に上げてやる」なんて張り切って戻ってきて、開幕から6試合で多ところで右大腿直筋肉離れになって。

 

それまで絶好調で体のキレもよかったのに、急にドカンとケガをして。その1発目のケガを治すのに3カ月ぐらいかかったんですけど、やってみたらやっぱりダメで9月に手術をしてまた6カ月かかって。

 

そこで出ていたのが川崎でもチームメイトだった杉山力裕で、あいつは本当に最高の男で。僕がプレーできなくなったときに杉山が出たから、本気で「頑張れよ」と思えたんですよ。本当にいい関係を作れてたと思いますね。

 

2017年も4月のトレーニングのときに左ハムストリングス肉離れになって、また3カ月かかって。ほぼ2年ケガしてピッチを離れたんで、それもまたキツかったですね。やれないキツさというのはそこで痛感しました。

 

こうやって考えると、いろいろ辛かったことがあったんですけどね……でも幸せですよ。やっぱり。元々の性格が勝負師なので、こういう刺激的なところで仕事ができてるのは本当に幸せだなって思ってやってます。まだまだ若造なんで心が乱れるときもありますけどね。

 

GKというポジションはレギュラーを取るまでに年単位かかるんですけど、正直、昔の自分だったらここまでやれなかったですね。若いときに全く試合に出られないとか、そういう経験をしてないんですよ。だいたい毎年試合には出させてもらってたし。

 

それが2017年から2018年までほぼ2年ピッチから離れてたんですけど、そんなに出場できなかった時期はなかったんです。昔の自分はこれだけ出られなかったら「なんでオレは出られない」「なんで使ってくれなんだ」って態度には出てたと思います。川崎のときは、どこかでふて腐れてた部分もあったと思うんですよ。

 

でも今は、僕ががそういう行動をしたら、それを見てる他の選手にそういう態度を取っても悪いことじゃないって勘違いさせてしまうと思うんですよね。だから僕が変な態度を見せちゃいけないし、チームの和を大事にしなければいけないと思うし。

 

僕が変な態度を取ることでチームが崩れることがあると思うんで。そういうことを考えて我慢……というか、チームのことを考えられるようになったから、何とかやれてるのかなと思いますね。今はちゃんとチームのことを考えられるようになりました。自分のことだけ見てたら、全然、テンション落ちてた思うんですけど。

 

まだまだ試合は出たいという気持ちは全然変わらないし、熱は冷めないし。だからやれるっていう自信もあります。本当にいろいろなチームで、全部いい経験させてもらって。しんどい時期もあったんですけど、そのしんどいことも全部、プラスに働いたから。

 

38歳の誕生日のとき、母親に初めて言ったんですよ。「こんな丈夫な体に産んでもらえてありがとうございます」って。生まれて初めてです。この年になって、本当に思います。恵まれた体だったんだって。

 

清水に来て気づいた赤身のうまさ

清水に来たら、やっぱり寿司ですね。マグロかなぁ。お勧めは赤身ですね。

 

僕は清水の「末廣鮨」か、「たか友」っていうところが好きですね。「末廣鮨」は駅の近くですけど、「たか友」は車で10分から15分ぐらい離れたところですね。

 

僕が寿司を食べに行って五貫だけ食べられるとしたら……うわー難しいな……赤身はまず絶対食べます。

 

清水に来て赤身のうまさを知ったんですよ。本当にうまい赤身ってこんな味なんだって。僕は元々釣りをしますし、魚がすごい好きで、お寿司も元々めちゃくちゃ好きだったんですけど、他のところと清水とでは赤身の差がすごくて。

 

新鮮だからかどうかわからないんですけど、本当に赤身がうまい。こんなに赤身がうまいんだって。だから外せないです。うわー、あとは……タチかなぁ。絶対食うなぁ。そんなに渋いの食べないから普通なんですけど、アジ……ヒラメ……それからタイかな……。

 

そう考えると自分が釣ってる魚が多いかもしれない。タイもタチも釣るし。それで自分がさばくのと、出てくる寿司の差がわかるんですよね。やっぱりプロの方がさばくのとは全然違うんですよ。さばき方で味が違ってくるんです。清水に来たら、ぜひおいしい魚を楽しんでいってくださいね。

 

末廣鮨
〒424-0815 静岡県静岡市清水区江尻東2-5-28

r.gnavi.co.jp

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西部洋平 プロフィール

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帝京第三高校から1999年、浦和レッズに入団。2年めのシーズン後半にレギュラーGKに抜擢され、J1昇格に貢献した。その後、アントラーズ、エスパルス、ベルマーレ、フロンターレを経て、2016年より再びエスパルスでプレーしている。

1980年生まれ、兵庫県出身

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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