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瀬戸内寂聴が語る、変化を怖れず前進する生き方とは。

2017年には数え年で96歳になる瀬戸内寂聴さんが京都・寂庵でスペシャルインタビューに応じてくれました。生き方に迷い、先行きへの不安を感じたとき、突き進むための勇気の源は?いくつもの人生を見て、生きてきたからこそ語れる、生き方指南をお届けします。 『VOGUE JAPAN』2017年1月号掲載。「Over the Topな女性たち」スペシャルインタビューより。 黒柳徹子さんのインタビューはこちらから。
Photo: JIJI

さあ、お菓子を食べて。この栗羊羹、季節になったら届けてくれるのよ。御倉屋さんという老舗の和菓子屋さんが。今年もいい出来でしょう。

私は最近、お菓子をよくいただいてます。私の部屋にお掃除に入ると、お菓子の紙ばかり散らかってるって、うちの若い秘書たちに叱られます。でも、甘いものばかり食べてるわけじゃないのよ。

九十二歳で胆のうがんの手術をしましたが、今でも、日本酒もシャンパンもお肉も大好き。好きなだけ飲んで食べてます。食欲があるんです、笑われるくらい。ただし、食事は一日二回。

私は五十一歳で出家しましたけれど、飽きっぽいんですね。同じ所や同じ状態で満足していればいいのに、そんなのは嫌なの。変化するほうがいい。違った場所に行くのが大好き。

1963年、書斎で本を開く作家、瀬戸内晴美。40代に突入した瀬戸内はすでに、結婚、出産、離婚を経て、社会に対してさまざまな発言を精力的に行っていた。

私が一番変わったのは戦争に負けたからです。結婚した学者の卵の夫について中国に行き、北京のフートン胡同で暮らしていた。そうしたら、終戦の二カ月前に夫に召集令状が来た。子どもができて間もなくで、まだ一歳にもなってなかったから、びっくり仰天しましたよ。

心の準備が何もなかったけれど、夫を送り出してからとにかく働かなければと思っていろいろ就職活動したあげく、日本の運送屋さんが雇ってくれました。初出勤の日に電話番をしていたら、かかってくるのが全部「そちらに預けた荷物は発送しないでください」というキャンセルの電話。この店、潰れるんじゃないのと思ってたら、お昼にみんな集まれと社長に言われて、社長の部屋でラジオを聞かされた。

キーキー言うばかりで何を言っているのかさっぱりわからない。でも店の主人はわかったみたいで、「ニッポンが負けた」って大声で泣き出してね。それを聞いたとたん、私はその運送店を飛び出した。だって子どもが心配でしょう。子守と二人でいるだけだったから。一生懸命走って帰った。それが私の終戦の日ですよ。

それまで私は本当に「忠君愛国」一点張りだった。大人に教えられたものや、読まされたもので生きていた。日本はいい戦争をしていると思ってた。でももう、なんにも信じまいと思ったの。これからは自分の目で見て、自分の手で触って感得したものだけを信じて生きていこう、と。

1973年、「寂聴」の法名を授けられる得度式にて。髪を下ろし、法衣を受け、51歳で瀬戸内晴美から瀬戸内寂聴となった。Photo: Yomiuri Shimbun / AFLO

日本に帰ってきてからも苦労が多くてね。非常に頼もしい人だと信じていた九つ上の夫のことを、実際は頼りないと感じるようになって、若い男と恋愛して、四歳になる娘を置いて婚家を出奔しました。正式に離婚が成立したのは二十八歳のときです。もちろん、若い男との間も続かない。

私が家を出たことを、人は大変なことをしでかしたみたいに言いますが、終戦の後ではおとなしくて貞淑だと思われてた女性が、あっちでもこっちでも家を出て行ってたんですよ。それまで辛抱していた女性が、反乱を起こした。国が全部ひっくり返ったときは、そういうことが起きます。

幸福になりたいというのが人間の生きる目的でしょう。みんな幸福になりたいと思っています。じゃあ、幸福って何かって言ったら、丈夫で稼ぎのいい亭主がいて、いい子どもがいて、男の子ならいい学校を出ていい会社に勤めて、女の子なら玉の輿に乗って、自分は着たいものを着てって思うけど、それが幸福じゃないんですよ。

向こうの国に難民が山ほどいて、自分の幸福のために、それを見捨てる。自分だけが幸福でも、それは幸福じゃないのね。同じ時代に同じ地球という所に生まれ合わせてきたすべての人間が、すべての子どもたちが、食べられて、学校へ行けて、勉強ができて、幸せな結婚ができる。自分の国がいいから難民は嫌だなんてね、そんなこと言っていられない。

1982年、インド・パキスタンへ取材旅行。『インド夢幻』(朝日新聞社、のち文春文庫)を刊行。地球規模で人類を見つめる姿勢は今も変わらず。Photo: Kodansha / AFLO

作家は自分に正直でなければならない。自分が信じていることは黙っていないで、言わなければならない。しかも私は出家者ですからね。出家者としての責任があるじゃないですか。だから信じてることは言わなきゃならない。今の政府が好まないことも平気で言うんですよ。私は何も怖くない。言える人が口に出して言わないといけない。牢屋に投げ込まれても言わないといけない。牢屋が女でいっぱいになっても女たちが手をつないで、「戦争をやめましょう!」って言わなきゃいけないの。

中国のタンカーで日本への引き揚げ船を待っていたとき、こんなことがありました。「女を出せ」と言われたの。中国が言ったのか、アメリカが言ったのかはわからない。だけど、そういうことがあったのですよ。みんな震えて「誰が行く」って真っ青になっていると、そのとき「行ってあげるよ」と立ち上がった女がいた。

派手なお化粧をして、「あの人は何をしていたかわからない」なんて、みんなに嫌がられてた女の人が、ですよ。立ち上がって行ってくれたの。翌日帰ってきました。これと同じようなことが書かれたフランスの有名な小説、モーパッサンの『脂肪の塊』と同じでした。

みんな自分を守ることしか考えないでしょ。自分だけ守ったって、しょうがないんですよ。考えてごらんなさい。みんな死んで自分一人が助かったら、今より怖い。私は前の戦争で、それをよく思いました。

2006年、皇居での文化勲章の親授式にて。瀬戸内寂聴、当時84歳。Photo: JIJI

どうしていいかわからないなんてことはないんです。まともに見たら、どうすべきかわかりきっている。だけど、みんなまともに見ようとしないの。わかりきっていることを言うと、今の政府では具合が悪いから叩かれる。今の政府の親分のことだけを聞こうとするからね。

でも私は、大逆事件で唯一の女性として死刑になった管野須賀子のこと(『遠い声』)や、大杉栄や甥とともに殺された甘粕事件の伊藤野枝のこと(『美は乱調にあり』)、政府に反対して、それで殺された人たちのことを書いていますから。怖くないのです。

たくさんの人に会って、つらい身の上話などをいっぱい聞いてきました。そうするといつの間にか直感力ができるのね。小説家は直感力がないといけない。そういう直感力が、変わることを怖れず、どんどん前に進むときの私のエネルギーになっていると思いますね。

私ね、若い人に言うんです。若いときは「恋と革命だ」って。もっと言えば、生きることは「恋と革命」、女は死ぬまで「恋と革命」ですよ。そう言うと、うちの若い秘書は「恋なんて言ったって、先生はダメ。男の趣味が悪いんですもの」って言う。失礼でしょう。笑っちゃう(笑)。最晩年に、こんないい子が秘書に来てくれて、私は守られていると思いますよ。お釈迦さんはいます。

新年が来たら数え年だと九十六歳、書くことはまだまだあります。ついこの間は、連載の仕事で、完徹したのよ。まだ大丈夫。

瀬戸内寂聴
1922年、徳島県生まれ。東京女子大学在学中に見合い結婚をした学者の夫と中国に渡る。北京で終戦を迎える。1946年に夫と娘と帰国するも、離婚。小説家を目指す。『田村俊子』(1961年)で作家として認められ、『夏の終り』(1963年)で女流文学賞を受賞。1973年に出家。瀬戸内晴美から瀬戸内寂聴に。現在も作家、僧侶として、戦争反対、原発不要など積極的に発言し続けている。

Text: Yukari Nukumizu Editor: Mihoko Iida