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吉場正和

「でっかいホームラン打たなきゃ、誰も見てくれない」――石橋貴明が語るバラエティーの未来

2019/05/24(金) 08:40 配信

オリジナル

「時代はやっぱり進んでいく」。『とんねるずのみなさんのおかげでした』が終了して1年余り、今、石橋貴明(57)はそう言う。1980年のとんねるず結成以来、ヒット番組やヒット曲を生み出してきた。「不器用でも負けずに頑張れば何とかなった」と道のりを振り返る。相方・木梨憲武、「東京の笑い」や後輩、コンプライアンス……。バラエティーと自身について、自由に語った。(取材・文:てれびのスキマ/撮影:吉場正和/Yahoo!ニュース 特集編集部)

(文中敬称略)

「やっぱ永遠はないんだな」

2018年3月に『とんねるずのみなさんのおかげでした』が終了し、1年余りが経った。最終回直前に発売された番組のDVDと第2弾の新作を、石橋貴明は「まだ見ていない」という。

「パッケージを開けてもない。その話をこの前、総合演出だった港浩一さんとか、ずっと一緒にやってきた人たちとゴルフに行った時に話したんです。そしたら、そこにいた3人がなんと全員開けてなかった(笑)。何でかって言うと、これを見てしまうと、本当に番組が終わったと自分たちで認めたことになる。だから今、最大の踏み絵になってるんですけど、スタッフでこれを開けた奴は、ホントのスタッフじゃないって(笑)」

約30年間にわたってやってきたから思い入れが強く、見るとしたら「死ぬ1週間前ぐらいじゃないか」と笑う。番組が終わったのを認めたくないというのは、またもう一度やってみたいということなのだろうか。

「いや、もう一度やりたいということではないんです。時代はやっぱり進んでいくし、それはしょうがないこと。終わった時に思いましたけど、やっぱ永遠はないんだなって。時代によって変化するものは変化しなきゃいけない。自分もずっとこのままじゃしょうがないわけで、変化に対応していかなきゃいけない。ただ、そうはいっても、人間としての本質は変わりようがない。だから、嫌だなと思ったことはやらないほうがいい。やっぱ自分が好きでやってたり、ノッてやってない限り、いい結果は出てこないから。本質は曲げず自分が信じたことを、同じような気持ちを持った人間たちと一緒にやっていけたらいいなと」

とんねるずはこれまで、数々の大ヒットや流行語を生み出してきた。時代の流れを読み、時代を作ってきたコンビだと言えるだろう。

「時代を読むとかっていうことは、占い師でもないから分からないし、偉そうに言えることは何もないんです。ただ一つ言えるのは、俺も憲武も番組を作っていたスタッフも、好きなこと、これは絶対面白いよねっていうことを信じてやっていた」

例えば、92年発売の作曲・後藤次利、作詞・秋元康のゴールデンコンビによる「ガラガラヘビがやってくる」。当時、多くの子どもたちが買い求め、ミリオンセラーになったが、元々は「子ども向け」に作られた曲ではないという。

「俺と次利さんと秋元さんで麻雀をやっている時に、テレビで洋画が流れてて『ガラガラヘビに気をつけて!』っていう台詞に大笑いしたんです。それで次利さんがすぐに曲を作っちゃった。次の日の夕方、忘れもしない西麻布の交差点のところで、次利さんが『貴ちゃん聞いてよ』って仮歌を入れたテープを流してゲラゲラ笑って。それがCDになって、ミリオンになってしまうわけですから」

『みなさん』の最終回でも「さいごのうたばん」として音楽ネタを振り返っていた。お笑い系バラエティー番組の中において、とかく音楽を大事にしてきた。とんねるずにとって音楽はどういう位置付けなのだろうか。

「コンビを組んだ時には、歌をやるなんて思っていなかった。秋元さんに乗せられ、『一気!』とか『雨の西麻布』が当たり、次利さんと『ガラガラヘビ~』『情けねえ』とかを作って。そうですね、『情けねえ』ぐらいですかね、武道館とかで歌ってる時は、ちょっと勘違いしてました(笑)。でも、武道館でも東京ドームでもやらしてもらいましたけど、それは全部、バラエティーの、笑いの延長。『東京ドームでやっちゃったりして』っていう。野猿も一回CD出せればいいやぐらいの感じだったんですけど、何かリアクションが良くて。ああいう時って、もう雪だるま式。1個ころころっと転がしたら、自分たちが思ってる以上に転がって、大玉になっちゃうみたいな。あれはちょっと説明ができない現象でしたね」

野猿は『とんねるずのみなさんのおかげでした』の企画「ほんとのうたばん」から生まれ、1998年から2001年まで活動。「叫び」など多数のヒット曲を生み、日本武道館などでもコンサートを行う人気ユニットになった。そもそもはKinKi Kidsのパロディーをするとんねるずのバックで、大道具や衣装などのスタッフが踊ったことが発端だった (C) 2019フジテレビジョン

不器用でも頑張れば何とかなった

とんねるずは、「お笑い」という枠など関係がないように見える。コントから音楽、俳優まで活動は多岐にわたり、アーティスト、俳優、スポーツ選手など各界の一流スターたちと早くから共演して、交流を重ねてきた。そもそも自分が「お笑い芸人」だという認識はあるのだろうか。

「今、みんな『お笑い芸人』って言うけど、『え、それ何?』って。コントと漫才やれる人が芸人なの? 俺ら漫才できないし、そうすると『お笑いタレント』なのかな、とか。結婚式に行くと座席表があるじゃないですか。『秋元康(作詞家)』『誰々(俳優)』みたいにカッコに肩書が書いてある。で、俺の席には『石橋貴明(とんねるず)』って。あ、これにしようって20代の時に決めたんです。肩書は『とんねるず』だって」

コント「太陽にほえるな」の一場面。とんねるず以外はほぼ全員、スタッフが演じていた (C) 2019フジテレビジョン

とかく傍若無人で乱暴者のようなイメージのある石橋だが、実際には自由奔放なのはむしろ相方の木梨憲武のほう。石橋はそんな木梨を自由に泳がせながら、コンビとしてのバランスを取っている。どんなふうに舵取りをしてきたのだろうか。

「役割分担がはっきりできているんで。こっちは枠をきっちり作る。その中に放り込んじゃえみたいな。そうするとあっちは自由にプレイする。それをやらせたらやっぱ天才的。俺は枠を作るのが好きだったんで、そこの部分は番組立ち上げた時から現在に至るまで、ずっと変わらない。時たま自分が嫌になってしまう時はありますよ。『ああ、もう誰か全部考えてくれないかな』って(笑)。誰と誰は仲が悪いからここでは合わせられないとか面倒くさいこといっぱいありますから。でも、そういうのを作るのが好きだから、しょうがないです」

コンビ結成31年目を迎えた2011年、番組の企画でヨーロッパ2人旅へ (C) 2019フジテレビジョン

石橋と木梨は高校時代からの親友同士。石橋から見て木梨のすごさはどんなところなのだろうか。

「やっぱ番組終わって、急に“アーティスト”になっちゃうところですよね(笑)。一つのことではなく、いろんな方向に変化していけるという、それは俺には全くない才能なんで。何においても次から次へと変えられる。俺はそういった意味じゃ、不器用なんで」

石橋は倉本聰脚本のドラマ『火の用心』に出演した際、倉本から「不器用」だと言われたという。石橋は『前略おふくろ様』や『北の国から』など倉本ドラマの大ファン。『火の用心』出演のために『みなさんのおかげです』を半年間休止したほどだ。

その本読みの際、台本には「僕が……、母さんに――、母さんのことを……、思っているのか――」のように書かれていた。石橋は硬くなって「……」と「――」の区別が付けられなかった。

「倉本さんに毎回ダメ出しされるんです。『おまえはこの『……』と『――』が何だと思ってるんだ』って。倉本さんのドラマ大好きだったから、倉本さんと飯食べに行って『不器用だ』って言われた時は、顔は笑ってましたけど、心は大泣き。ずっと頭の中で『前略おふくろ様』のナレーションみたいに『母さん、俺は今、怒られてます』ってBGMも鳴ってる(笑)。でも『不器用もとことん突き詰めていくと、それは武器になる』って言うんですよ。ガッツ石松さんを例に出して(笑)。確かに、不器用でも負けずに頑張れば何とかなった。野球も下手くそで、勉強もできず、ホテルに就職すれば先輩に横っ面はたかれ……。でも一つだけ、人を笑かせることはちっちゃい時から得意だった。そんな俺がここまで来たんですから」

芸能生活で一番忘れられない日

石橋には少年時代の忘れられない思い出がある。小学生の頃、初めてテレビ(『アフタヌーンショー』)に出演した時のことだ。

「俺んちすげえ貧乏だったんだけど、うちが取っていた米屋のお兄ちゃんが感激してくれて、『石橋くん、見たよ、テレビ、すっげえ面白かった』って、お金持ちしか飲めないジュースだと思ってたプラッシーを1ケース持ってきてくれたんだよ。『プラッシーだ! テレビ出るってこんなにすげえんだ!』って、あの時の気持ちはずっと忘れてない。テレビは、そんな奇跡が起きるんですよ」

コント55号、ザ・ドリフターズ、ビートたけし、タモリ、堺正章……、幼い頃からさまざまな「笑い」に強い影響を受けてきた。「全部記憶の中に残っているくらい、ただのテレビっ子」だと言う。仲間内ではよく自分たちを「ちゃんと地層が積み重なってる“関東ローム層”」だと評しているという。そんな「東京の笑い」の系譜を、後輩芸人たちにどのように受け継いでいるのだろうか。

「“とんねるずの後輩”っていうのは難しいですよ。『とんねるず』が北の湖みたいな一代年寄になっちゃったから(笑)。自分たちも何だか分かんない間に出てきて、何だか分かんない間に売れちゃって、後輩に教えられることがないんです。あと、イチローが言ってたのと一緒で全く『人望がない』(笑)。ましてや審査なんかできないですよ、笑いのポイントは人それぞれですから。それに、『テレビに出れた』っていうのと『食っていける』のは、また違う話で。俺が思ってる『売れる』って、その世界で出てきて、少なくとも10年、20年続くっていうこと。ぱっとテレビに出てきたことじゃない。面白けりゃ、歌がうまけりゃ、芝居がうまけりゃ売れるってわけでもなく、もう一個乗らないといけない。麻雀でいえば満貫じゃダメなんだよね。あと何個、役が乗るんだってくらいじゃないと」

芸能生活の中で一番忘れられない日は、『みなさん』のレギュラー放送が始まった88年、初めて視聴率が20%を超えた日だという。その時、『ねるとん紅鯨団』とあわせ、二つの番組が同時に20%前後の視聴率を取ることができた。

「その時に、『売れた』っていうか、もう大丈夫だなと思った。やっと一丁前に『とんねるずです』って言えるかなと」

90年代にはウッチャンナンチャンやダウンタウンといった新しい世代が台頭してきたが、「脅威」だとは感じなかった。

「いろんなタイプの人間が出てくるっていうのが当然だと思っていたし。俺らは俺らで面白いことをやっていくということでしかなかったので」

「コンプライアンスが厳しい」は言い訳

近年はコンプライアンスが厳しくなり、とんねるずはその批判の矢面に立たされたこともあった。

「プライオリティーとして『それを守ることが一番大事なんだ』じゃ、何も始まらないと思うんですよ。ルールは守らなきゃいけないんだけど、守るなかで何かを考えていかない限り、進歩はしないよね。守ることだけを考えてたら、発想なんてものは絶対生まれない。やり方はいくらでもあると思う。確かに『うーん』って感じる時はあるけど、そこでめげてたら終わっちゃう。『コンプライアンスが厳しくなったから、つまらなくなったのかい?』って。それは言い訳ですよね」

「スマホで10秒、15秒の動画を見て楽しんでいる人たちに、1時間の番組にテレビのチャンネルを合わせさせるのって、相当考えないといけない。とりあえず打席に立ってヒット打ってたって、誰も見てくれない。でっかいホームラン打たなきゃ。もっと違うところに頭使って、汗かけば、まだあると思うんだよね、面白いことは。それを諦めた時は終わってしまう。だって、キャッチボールがしたいんだもん。それが公園でできないのなら、他の遊び場を探すしかないかなって」

デビューから順風満帆に見えるとんねるず。「失敗したこと」を聞くと「相棒を木梨憲武にしたこと」と笑い飛ばして続けた。

「いや、当然のようにいろんな失敗は繰り返しているんですよ。『みなさん』でも何度叱られたことか。そのたびに偉い人が謝りに行ってね。でも多少の失敗は付いてくるもんだと思えば、あんまりそこで足元見ててもしょうがないし、下向いてても何も落ちてない。だったら、突き進んでいくしかないよね」

石橋貴明(いしばし・たかあき)
1961年、東京都生まれ。1980年、木梨憲武と「とんねるず」を結成。1982年に『お笑いスター誕生!!』でグランプリを獲得。1988年に『とんねるずのみなさんのおかげです』がスタート。『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』『とんねるずのみなさんのおかげでした』など人気番組を次々と生む。フジテレビ系『石橋貴明のたいむとんねる』が毎週月曜23時より放送中。DVD-BOX第2弾『とんねるずのみなさんのおかげでBOX コンプライアンス』が5月22日に発売された。


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