海外文学読書録

書評と感想

コード・ジェファーソン『アメリカン・フィクション』(2023/米)

★★★

小説家のモンク(ジェフリー・ライト)は作品に黒人らしさが足りないせいで鳴かず飛ばずだった。やがて身内に不幸があり、また、母親を介護するために多額の資金が必要となる。切羽詰まったモンクは冗談で黒人らしさをふんだんに取り入れたジャンク小説を書く。ところが、それがベストセラーになるのだった。

原作はPercival Everett『Erasure』【Amazon】。

『ゲット・アウト』系統のPCを風刺した映画。『ザ・ボーイズ』もそうだったが、このところPCを皮肉った映像作品がアメリカから出てきて面白い。PCは差別を解消するための規範であるが、その規範が行き過ぎて民衆の言動を抑圧してしまう。のみならず、心まで侵食して支配してしまう。冒頭で「人造黒人」の語を不愉快と言って退席した学生はその象徴だろう。彼らはPCに洗脳されている。リベラルの規範を疑いなく信じている。そういう人たちは得てして黒人にステロタイプを抱いていて、彼らを可哀想ランキング上位に位置づけがちだ。黒人と言ったら、ヤク中でラップ好きで父親を射殺する社会の底辺。世間からギャングスターの役割を望まれている。アメリカ社会は多様性を謳っているが、実際は黒人の多様性を認めてない。黒人には黒人の、つまり、可哀想ランキング上位としての役割を求めている。差別を解消しようとする規範が新たに差別的な固定観念を生んでいるのだ。黒人は黒人らしく振る舞わなければならない。それが呪いとして機能している。本作はPCがもたらした歪みを捉えていて面白い。

作家なんて売れたくて売れたくて仕方のない人種なのに、モンクは自作を正当に評価されたいと願っているのだから捻くれている。冗談で書いたジャンク小説が世間に受けているのがたまらなく許せないのだ。自分は人種を超越した文学作品で評価されたい。ところが、世間は黒人らしさを詰め込んだ退廃的なゴミを望んでいる。このギャップに苦しむ様子が本作の見所であるが、正直言ってかなり胡散臭い。冗談で書いた小説とはいえ、ベストセラーになったら大金が手に入る。モンクは母親の介護費用が入り用だから本音では嬉しいはずだ。背に腹は代えられないものである。とはいえ、昔からこの種の悩みはよく聞く。本当は純文学を書きたいのに生活のために泣く泣く娯楽小説を書くようになった、と。結局、金というのはやりたくないことをやるから手に入るのであり、正当に評価されたいと願うのはおこがましいのである。ジャンク小説を軽蔑するモンクは贅沢ではなかろうか。資本主義社会において純粋な芸術家など存在しない。芸術家は同時に労働者でもある。労働者は顧客のニーズを満たさなければならない。我々は人生のままならなさを受け入れる必要がある。

本作はオチが不満だ。すべては茶番だと主張したいのだろうが、入れ子構造にすることで本筋から逃げているように見える。やっていることは昔ながらの夢オチに近い。途中まで面白かったのに最後で台無しになってしまった。

スティーブン・スピルバーグ『ウエスト・サイド・ストーリー』(2021/米)

★★★

マンハッタン。当地では2つの不良少年団が対立していた。1つはポーランド系アメリカ人のジェッツ。もう1つはプエルトリコ系アメリカ人のシャークス。ジェッツのボスはリフ(マイク・ファイスト)、シャークスのボスはベルナルド(デヴィッド・アルヴァレス)である。ある日、リフは親友のトニー(アンセル・エルゴート)をダンスパーティーに誘う。そこにはベルナルドの妹マリア(レイチェル・ゼグラー)も来ていた。トニーとマリアは互いに一目惚れする。

ロバート・ワイズ版(邦題『ウエスト・サイド物語』)のほうが圧倒的にいい。スティーブン・スピルバーグという天才ですら先行する映画を超えられなかったのは悲しいものがある。まあ、そもそも後発作品は先発作品の批評という形でしか存在し得ないから分が悪い。それは理解できる。だから人種問題を前面に出したリアリズム重視の内容になったわけだが、いくら差別化を図るとはいえ、今更そんなアレンジをしてどうするのか疑問である。確かに新鮮と言えば新鮮だ。しかし、代わりに華を失った。いくらブロードウェイの名作とはいえ、再映画化の意義がいまいちよく分からない。

ナタリー・ウッドやジョージ・チャキリスに匹敵する名優がいないのが敗因だろう。キャスティングは総じて政治的に正しい配慮がされていて、今回のマリア役はしっかりラテン系である。前回のような掟破りの配役はできなかった。当然、ジョージ・チャキリスのような輝きを持った俳優もいない。みんなモブのようである。一方、リチャード・ベイマーとアンセル・エルゴートは同格といった感じで、主役のわりに影が薄いところが共通している。全体的に本作の俳優はパッとしない。そこが引っ掛かった。

人種問題についてはかなり突っ込んでいる。ジェッツとシャークスは同じ移民集団であるが、ジェッツがポーランド系で白人なのに対し、シャークスはプエルトリコ系で有色人種なのである。この差を明確にしたところが印象的だった。ジェッツは自分たちを本流のアメリカ人と信じていて差別意識が強いし、シャークスはそんなジェッツに反発しつつよそ者という意識を強くしている。同じ移民でも白人と有色人種の共存は困難だった。面白いのは、ジェッツのメンバーがシャークスに差別的な言葉を投げつけているところだ。これが見ていて胸くそが悪くなるくらい侮辱的なのである。僕はこのシーンを見て思った。実はスピルバーグが一番やりたかったのは反PC的な描写なのではないか、と。つまり、PCを口実にして反PC的な描写をする。このような構造は『プライベート・ライアン』や『シンドラーのリスト』でも見られた。全体としては戦争や暴力に反対しつつ、細部では恐ろしくリアルな(スナッフ・フィルムのような)暴力を描いている。反PC的な描写にはこちらをぎょっとさせるような衝撃があるわけで、その衝撃をスピルバーグは観客に与えたかったのだろう。こういうところは食えない監督だと思う。

一番良かったシーンはトニーとマリアが一目惚れしたシーン。2人は軽く踊って話し合う。マリアのほうがキスを持ちかけ、いったんトニーが身を引いた後に2人はキスをする。一連の流れが芸術的だった。

竹中優介『希望と絶望』(2022/日)

希望と絶望

希望と絶望

  • 日向坂46
Amazon

★★★

日向坂46のドキュメンタリー。2019年12月に東京ドーム公演が発表されたが、新型コロナウイルス感染症の流行によって暗礁に乗り上げる。また、体調不良によってメンバーが活動休止する。色々あって2022年3月に東京ドーム公演を実現させる。

『3年目のデビュー』の続編。

映画というよりはテレビのドキュメンタリーみたいで萎えた。映像も編集もテレビっぽいのである。しかし、コロナ禍に翻弄されたアイドルグループの内情が知れたのは興味深い。思えば、当時は世間が自粛ムードだった。マスクをせずに外出しようものなら容赦なくバッシングされた。施設でクラスターが発生したらニュースになっていた時期である。当然、外食産業や遊興施設など客商売は軒並み干上がっていた。アイドルグループも無観客ライブを余儀なくされた。当時は自由を制限されて誰もがストレスを抱えていたのだ。そういう異常な時期を2時間の尺で記録したのは評価できる。本作はコロナ禍の歴史資料として後世の人たちに参照されることだろう。ドキュメンタリーとしての価値は高い。

メンバーは年齢のわりに意識が高く、ファンのためにパフォーマンスすることを自明のものとしている。門外漢としてはそこが不気味に見える。たかだか人間がキラキラした偶像を演じるなんて健全ではない。素直に集金のためと言ってくれたほうがこちらとしてもなんぼか楽になる。そもそも現代日本に瀰漫する推し活というのが僕は気に入らない。

推し活。本来だったら自分が頑張るべきなのに、その頑張りを「推し」に代行させて自分は応援する側に回っている。そして、「推し」が頑張っている姿を見て勝手に勇気を貰っている。客は「推し」から頑張りを搾取しているのだ(代わりに客は金を搾取されている)。要はキラキラ輝いている人を見て栄光浴しているのである。これって何かに似ていると思ったら「ニッポンスゴイ」系のテレビ番組だ。本当にすごいのはその文化を支えている上澄みの人たちなのに、そうでない一般人が彼らのお相伴に預かって自分もすごいと錯覚してしまう。大谷翔平を生んだニッポンスゴイ! だから自分もスゴイ! そういう精神が健全とはとても思えない。推し活産業とは弱者を対象とした依存ビジネスである。つまり、心の弱い人たちを「推し」に依存させて金銭を巻き上げる。構造としてはギャンブルや宗教に近い。なので推し活している連中を見ているとたまらなく嫌になる。

アイドルもステージ上ではキラキラ輝いているが、所詮は組織内の末端労働者に過ぎない。曲はスタッフが作るし、振り付けもスタッフが指導する。誰がセンターになるかを決めるのもスタッフだ。アイドル本人が自主的に何かを決めることはほとんどない。スタッフに指示されたことをただ忠実にこなしている。スタッフが管理職だとすれば、アイドルは平社員なのだ。ステージ上ではキラキラ輝いているアイドルたち。いざ舞台裏を覗いてみると夢も希望もなかった。そういう意味で本作は絶望を記録した映画と言える。

小津安二郎『風の中の牝雞』(1948/日)

風の中の牝雞

★★★

東京の下町。雨宮時子(田中絹代)は幼い息子と2人で一軒家に間借りしている。夫・修一(佐野周二)はまだ戦争から帰ってこない。時子は着物をすべて売り払うほど困窮していた。ある日、息子が熱を出して入院する。時子は入院費用を工面するのため売春するのだった。その後、修一が復員してくる。

戦後の復興と夫婦の再建を重ねたドラマ。戦争も過ちなら売春も過ちであるが、全部忘れて乗り越えていこう、というのが物語の骨子だ。序盤からたびたび挿入されるのが建設中の巨大建築物で、これは戦後の復興を象徴している。この建築物が夫婦のプロットに合流するところが本作の肝だろう。東京は空襲によって焼け野原になった。一方、夫婦は妻の売春によって信頼関係が壊れた。それでも前を向いてやり直すことができる。やはり小津安二郎の映画はメッセージ性が強い。娯楽映画のツボを押さえている。

現代人が見ると売春をスティグマのように扱っているところに違和感がある。しかし、当時はまだ性が解放されていなかった。欧米において性の革命が起きたのが1960年代である。当然、1940年代の日本はまだまだ保守的だった。売春はいかなる理由があっても罪なのである。面白いのは時子が階段から転げ落ちることで罪が精算されるところで、売春という罪に対してきっちり罰を与えている。現代人としては、そこまでしないと許されないのか、とドン引きした。

また、当時の女性は男性に上手く調教されていたようで、夫に突き飛ばされて階段から転げ落ちた時子が、それでもなお夫に取りすがって謝罪するのだから驚く。ここは普通、夫のほうが謝罪すべきではないか。たかだか夫婦の揉め事で暴力は許されない。むしろ、この暴力が罪の精算になっているところに歪みを感じる。確かに当時は今よりも男尊女卑の時代だった。今と違って女性に人権がなかった。しかし、そういう時代性を考慮したとしてもこの仕打ちは行き過ぎのように思える。小津の保守的な面が剥き出しになっていた。

本作を見て気づいたのは服装が象徴する階層性だ。ブルジョワが着物を着ているのに対し、庶民は洋服を着ている。なぜこういう差があるのかというと、着物は高価だからである。現に困窮した時子は着物をすべて売り払っている。当時の庶民は万事がこうだったはずで、この時代に着物を着ている女性は売らなくても生活が成り立っていたことを意味する。だからブルジョワの象徴になっているのだ。不覚にも本作を見るまで気づかなかった。戦後の日本でわざわざ着物を着ているのはどういうことか、と訝しんでいた。ところが、実はただの顕示的消費なのである*1。ブルジョワの俗物ぶりを目の当たりにして目眩がした。

本作を見ると現代の東京はごちゃごちゃし過ぎだと思う。当時は人も建物も少なく、今よりも殺風景でのどかだった。建設中の巨大建築物の側には、2階建てのボロい木造住宅が点在している。住環境としてはこれくらいの密度が適切なのかもしれない。今一度東京を焼け野原にする必要があるのではないか。地方創生が叫ばれる昨今、東京への一極集中をどうにかしなければならない。

*1:ソースティン・ヴェブレン『有閑階級の理論』【Amazon】を参照のこと。

小津安二郎『長屋紳士録』(1947/日)

長屋紳士録

長屋紳士録

  • 飯田蝶子
Amazon

★★★

荒物屋を営むおたね(飯田蝶子)は未亡人。子供もなく一人で暮らしている。そんな彼女に戦災孤児と思しき少年・幸平(青木放屁)が押しつけられた。おたねは事あるごとに幸平に悪態をつき、彼を追い出そうとする。ところが、ある出来事を機に情が湧くのだった。

昔のサイレント映画にありがちな人情ものだが(チャップリンを彷彿とさせる)、ちょっと社会派に接近してる感じがある。終盤の説教臭いところが玉に瑕だろうか。小津安二郎は意外と分かりやすいメッセージを入れてくるから油断できない。年長者は年少者に気を配るべきだ、というのが小津の一貫した思想なのだろう。当時は老害なんて言葉はなかったはずだが、小津は確実に老害の存在を認知している。年長者のエゴに待ったをかけるところが彼の持ち味のようだ。

大人たちが孤児に冷淡なところがすごかった。みんな厄介者扱いである。特におたねは半端なくて幸平への当たりが強い。序盤は放り出そうと躍起になっている。身寄りのない子供を放り出したら野垂れ死にするのではないかと心配になるが、当の大人たちはそんなこと微塵も思ってない。一人で勝手に生きていくだろうと高を括っている。当時は終戦から2年しか経っておらず、食料も配給に頼っていた。大人たちは自分のことで精一杯で子供に情けをかけられなかったのだ。しかし、そうは言ってもおたねの当たりの強さは異常である。「子供嫌い」を自称しても余りあるほどの攻撃性が見て取れる。江戸っ子は義理人情に篤いと言うが、現代人のほうがよっぽど人情家だ。本作を見ていると子供に人権がなくてびっくりする。

カメラはローアングルで、場面転換の際は風景のショットで繋いでいる(余計な視覚効果を用いてない)。この手法は既に確立していたようだ。また、本作は戦後を生きる庶民を題材にしている。後にブルジョワ趣味に走るところはルキノ・ヴィスコンティっぽい。ヴィスコンティは己のルーツに立ち返ったと考えられるが、小津の場合はどういう心境の変化があったのか気になるところだ。

後に老け役として活躍する笠智衆が年相応のおじさんを演じている。最初見たときは誰だか分からなかった。声を聞いてようやく笠と判別できたほどである。彼は訛りがあるので分かりやすい。笠は本作で見事な歌唱を披露していた。不器用そうに見えてなかなか芸達者なのがこの人である。ともあれ、本作における笠の風貌はショッキングだった。

登場人物の口跡が落語を彷彿とさせる。江戸っ子だからそうなっているのだろうか。主演の飯田蝶子はサイレントからトーキーに移る際、演技の参考にするため落語を研究したという。確かに飯田の口跡も落語だ。現代の俳優とは明らかに違う。古典映画を見るとはこういうことかと感動した。

印象に残っているシーンは、おたねが浜辺に幸平を置き去りにしたシーン。幸平の注意を海に向けて自身はすたこら逃げている。ところが、すぐに気づかれて追いつかれるのだった。このシーンは動きがコミカルでサイレント喜劇を連想させる。小津のルーツを垣間見たような気がした。