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「駒沢オリンピック公園」の歴史

世田谷区は都市公園の総数や面積で23区内中3位(2021(令和3)年4月現在)を誇る。中でも「駒沢オリンピック公園」は区内にある公園として最大(敷地の一部は目黒区)と、区を代表する公園の一つとなっている。ここでは、戦後の「東京オリンピック」で第二会場となったのち開園した「駒沢オリンピック公園」の歴史を紹介する。


幻の「東京オリンピック」のメイン会場

1940(昭和15)年は皇紀2600年にあたり、日本政府はこれを記念してオリンピックを招致した。1936(昭和11)年に東京での開催が決定、当初メイン会場は代々木の「明治神宮外苑競技場」を予定していた。しかし、拡張用地確保の問題などから再検討されることとなり、「駒沢ゴルフ場」がある13万坪の土地に新たな競技場を建設することが1938(昭和13)年4月に決定となった。ところが、前年からの「日中戦争」で国際的な緊張が高まる中、国内外から開催の辞退を求める声が多く挙がり、1938(昭和13)年7月に開催を返上、駒沢の競技場は着工にも至らなかった。図は会場の予想図で、図中央に「紀元二千六百年記念広場」、図右に競技場、図左に水泳競技場、図上部に「オリンピック村」を建設する予定だった。【図は1938(昭和13)年】

プロ野球の本拠地であった「駒澤野球場」 MAP __

戦時中に防空緑地となり、畑としても利用されていた「駒沢ゴルフ場」の跡地は1949(昭和24)年に「駒沢総合運動場」として整備され「第四回国民体育大会」の競技会場となった。1953(昭和28)年、「東急電鉄」は運動場内に「駒澤野球場」を建設し都に寄付。同年9月からプロ野球球団の「東急フライヤーズ」(現「北海道日本ハムファイターズ」)が使用した。写真は1953(昭和28)年9月の「東急フライヤーズ」対「南海ホークス」(現「福岡ソフトバンクホークス」)の試合。この翌年、改称した「東映フライヤーズ」の本拠地となった。【画像は1953(昭和28)年】

「駒澤野球場」は、「東京オリンピック」の競技場整備のため、1961(昭和36)年に閉鎖となった。写真は同年11月に行われた「東映」対「巨人」の「駒沢球場サヨナラオープン戦」の様子。【画像は1961(昭和36)年】

翌1962(昭和37)年に取り壊しとなり、跡地には「第ニ球技場」が建設され、オリンピックではホッケー場として使用された。写真は現在の「第ニ球技場」を過去の写真の撮影地点付近から望む。

「東京オリンピック」の第二会場 MAP __(オリンピック記念塔)

1959(昭和34)年、アジア初の開催となる「東京オリンピック」の誘致に成功、「駒沢総合運動場」は第二会場として全面的な改修整備が進められた。航空写真は1964(昭和39)年の「東京オリンピック」開催の頃の様子で、写真左の「体育館」がレスリング、写真右の「屋内球技場」がバレーボール、写真中央上の「陸上競技場」がサッカー、写真左上の緑地部分の「補助球技場」などがホッケーの会場となった。「屋内球技場」は「東洋の魔女」と呼ばれたバレーボールの女子日本代表チームが金メダルを獲得した舞台であったが、建て直しのため2014(平成26)年に解体され、2017(平成29)年に新しい屋内球技場が誕生した。【画像は1964(昭和39)年】

写真は1964(昭和39)年撮影の「オリンピック記念塔」と「聖火台」。「オリンピック記念塔」は高さ50m、地下1階、地上12階建ての塔で、上部に給水槽が設けられている。名称は1964(昭和39)年の「東京オリンピック」開催当時からのもの。「管制塔」とも呼ばれ、公園の電気・ガス・水道・通信をコントロールしている。【画像は1964(昭和39)年】

「東京オリンピック」終了後の1964(昭和39)年12月、会場の跡地に「駒沢オリンピック公園」が開園した。2021(令和3)年に行われた「東京2020オリンピック」では、競技会場にはならなかったが、サッカーの公式練習会場として利用された。写真は現在の「駒沢オリンピック公園」の「中央広場」で、写真左が「体育館」、写真右が「オリンピック記念塔」、その右に「聖火台」も残されている。1993(平成5)年の「体育館」の全面改築と同時に、「オリンピックメモリアルギャラリー」が開設された。


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