日経ビジネス電子版で「『ア・ピース・オブ・警句』~世間に転がる意味不明」、日経ビジネス本誌では「『pie in the sky』~ 絵に描いた餅べーション」を連載中のコラムニスト、小田嶋隆さんが亡くなりました。65歳でした。

 小田嶋さんには、日経ビジネス電子版の前身である日経ビジネスオンラインの黎明(れいめい)期から看板コラムニストとして、支えていただきました。追悼の意を込めて、2021年11月12日に掲載した「晩年は誰のものでもない」を再掲します。

 時の権力者だけでなく、社会に対して舌鋒(ぜっぽう)鋭く切り込む真のコラムニスト。その小田嶋さんがつむぐ1万字近い原稿を、短い言葉でどう表現するか。記事タイトルを短時間で考える担当編集者にとっては、連載の公開前日は勝負の1日でもありました。

 再掲載するコラムは療養中の病室から送っていただいた原稿です。「晩年」という言葉やそれを何も考えずに使う社会に対して、「晩年は他人が宣告できるものではない。あくまでも自己申告の目安にすぎない。それも、多分に芝居がかった指標だ」と喝破します。

 体調が優れずにやむなく休載してからも、「キーボードを打てなくても、音声で入力できてこれがいいんだよ」と話した小田嶋さん。「まだまだ伝えたいことがある」「残さないといけない言葉がある」と連載再開の意欲に満ちあふれていらっしゃいました。

 小田嶋さんが残したかったその言葉とは何だったのでしょうか。

 謹んでご冥福をお祈りします。

(日経ビジネス編集部)

(写真提供:柳瀬博一さん)
(写真提供:柳瀬博一さん)

 この原稿は、とある都内の病院のベッドサイドに設置された硬い椅子の上で書いている。というのも、私は、またしても入院しているからだ。
 先週と今週の当欄は、だから、病院からの出稿ということになる。
 自分ながらよく働く病人だと思っている。
 病的な勤勉さと申し上げても良い。

 じっさい、
「勤勉は貧困の一症状である」
 と言えば言えるわけで、十分な資産なり年収なりを手にしている人間は、病院で原稿を書くみたいな無茶はしない。

 でもまあ、ものは考えようだ。

 原稿を書く稼業の人間にとっては、適度な貧困こそが、気詰まりな原稿の一行目をタイプするための理想的なスターティングガンということになる。書かなくても食えるのであれば、私は一行だって書かなかっただろう。それほど、執筆という作業は、書き手の心身をすり減らすものなのだ。

 そういう意味で、これまでのライター生活の40年が、おおむね適度な貧困に恵まれた月日であったことには感謝している。デビュー作がうっかりベストセラーになっていたりしたら、私はそれっきり何も書かずにアルコールに耽溺していたはずだ。だとすると、私はすでにこの世からいなくなっていたことだろう。感謝せねばならない。

 今回の入院は救急車で搬送された緊急の入院ではない。
 あくまでも治療のための入院だ。
 新たに開始することになった治療は、通院でも対応可能なものなのだが、毎日病院に通う手間を考えると、いっそ入院したほうが楽だろうと考えた次第だ。その意味では、計画的な入院という言い方もできる。いずれにせよ、大きな心配はいらない。

 とはいえ、8月に入院したばかりなのに、またしても病院のお世話になっている状況に心を痛めている読者もいらっしゃるはずだ。甲子園大会の言い方になぞらえるなら、2015年からの7年間で、「3ヶ月ぶり7回目」の入院ということになる。穏やかならぬ頻度だ。訃報欄の常法としては「晩年は入退院を繰り返し……」てなことになるのだろう。

 ん?

 私はすでに晩年を生きているのだろうか。

 私がどう思っているのかにかかわらず、客観的に見れば、その可能性はある。晩年コラムニストの晩年コラム。多少ありがたみが増すだろうか。

 今回は、晩年について考えていることを書いてみようと思う。

 書店の店頭を眺めてみればわかることなのだが、昨今の出版界では、意外なことに、このテーマ(晩年、老後の過ごし方、穏やかな老い方、死と向き合う方法)を扱った書籍に大いに依存している。であるから中規模以上の書店には、死生観やら老年やらを扱った特別なコーナーが設置されている。そのコーナーの中では、80歳を超えた老大家たちが、いずれも、人生に結末をつける方法について得々と語っていたりする。

 さてしかし「晩年」は、観察者の言葉であって当事者の言葉ではない。

 どういうことなのかというと、他人の人生を観察なり整理している人間が、生まれた時期と死んだ時点を確認した上で、死亡時から逆算した最後の数年間に「晩年」というタグを貼り付けているだけで、生きている当人は、特段に結末を意識していないということだ。

 テニス選手の引退前の幾年かを「晩年」「末期」と呼ぶのは、ジャーナリストなり記者なりの評価であって、選手本人は、ルーキーイヤーであれ5年目であれ引退の前年であれ、同じ気持ちでコートに立っている(はずだ)。だから、事実として、全盛期より見劣りのするショットが行き来しているのだとしても、ひとの選手生活に対して、他人が「晩年」という言葉を使うのは失礼に当たる。

 たとえば、研究室でマウスやモルモットの繁殖を担当している助手のことを考えてみれば良い。飼育担当者は万全な注意を払って動物を管理している。であるから、誕生から死に至るイベントを残らずデータとして記録している。その完全な観察者である人間からすれば、マウスの「晩年」はあらかじめわかっている。死んだ時期も、生まれたタイミングも、生存していた年数もすべて把握しているからだ。そこから「晩年」を算出するのはそんなに難しい作業ではない。

 しかし、現実に生きている人間が自分の晩年を予断として決定するのは容易なことではない。
 自分が何年の寿命を持っていて、あと何年生きるのかがわかっていないと、どのポイントを「晩年」の起点として良いのやら見当がつかない。

 晩年を決定できるのは本人だけだという考え方もある。

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