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蜂インザヘッド 

ものすごく考えているか、まったく考えていない

2022年のまとめ

2022年のまとめを書いた。みんなもうとっくに書き終えていて、今は来年の抱負などを言い合うフェーズに入っているので、駆け足でささっと。

 

創作と活動

バゴプラの小説レーベル、Kaguya Booksから出す長編を書いている。しかし書けない、書けない、とうめいているうちに一年が終わってしまった。人生に何度もない機会を前にしても、人は(私という人は)生まれ変わったように獅子奮迅とはなれないのだな…と痛感する一年だった。体力がないのも、集中力がないのも、気まぐれなのも臆病なのも昨日の自分から何一つ変わらない。はじめは気軽にニコニコして読める話を書いてたはずが、思いの外自分の深いところを覗き込んでしまって、私はなんという嫌なやつだと思ったり、未熟な部分や未解決な部分に気がついたりして落ち込んでいる。みんな自分が書くものとどうやって距離をとっているのだろう。今年は長編(の書けなさ)を通じて「世界」とか「私」というものの把握の仕方がこれまでと大きく変わった年だった。そういう意味ではすごく変革のあった年なのだが、しかし一方で小説が進んでいない、という現実があって、これは動かしようがない。たまに降ってくる断片的な場面を捕まえてはためこんでいる。ごくたまに「これは本当に、私が書くべき物語だ」と確信する瞬間がある。

『ウィッチンケア』第12号に掌編を寄稿した。「イネ科の地上絵」という田んぼアートを題材にした話。今読むと我ながら長編を書くことへの不安が露骨に出た一作と読めて、ちょっと笑ってしまう。発行人の多田洋一さんがとても丁寧にご紹介くださっているので、下記を参照ください。

note.com

 

amazonほか下記書店で取り扱いがあります(在庫状況は不明)。

 

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Kaguya Booksで発表した「冬眠世代」が『新しい世界を生きるための14のSF』(伴名練編/早川書房)に収録された。すごいことだ。書いたのは2019年なので、もう2年も前の短編だけれど、とても嬉しかった。

www.hayakawa-online.co.jp

伴名練さんのコラム「動物」に「動物SFといえば誰よりもまず北野勇作。」とあって「そうなの!?」と思った。北野さんとは毎週一緒に犬街ラジオを配信していて、この話もラジオの雑談中にネタが降りてきたので、知らないうちにめちゃくちゃ影響されているのかもしれない。というか、めちゃくちゃ影響されているのでしょう。もう一人のメンバー、谷脇クリタさんからも。

 

話に出たついでにいうと、毎週水曜日21時からツイキャスで配信している「犬と街灯とラジオ」(通称犬街ラジオ)は今年も継続した。2020年に始まってもう2年以上やっている。毎週欠かさず続けてることってこれ以外ほぼない気がする。朗読する掌編を毎回持ち寄って、(無理なときは日記や夢日記を引っ張り出して)それぞれの朗読についてああだこうだ話す。作品とまったく関係のない話で盛り上がったり、突然記憶の蓋が開いたりして、楽しい。

また、今年はリアルイベントとして「まちのひ朗読舎」(@中崎町 ギャラリーyolcha)が始まった年でもあった。だいたい毎月第4水曜日に開催されている朗読&オープンマイクのイベントだ。毎週ラジオで朗読しているけれど、生の朗読は読むのも話すのも肌に感じられる空気がまったく違っていて面白かった。オープンマイクの朗読がこれまた毎回すごい。必ずどこかでマジックが起きる。集客の面では満員御礼というわけにはぜんぜんいかなくて申し訳ないのだけど、幸運なことに来年もひとまず続けさせていだけるとのことなので、お近くにお越しの際はぜひお立ち寄りください。オープンマイクは聞くだけでも全然いいし、自作じゃなくてもいいし、朗読はやったことない・自信がないという方でもリラックスして朗読できる場になっていると思います。

 

2023年刊行予定の岸政彦編『大阪の生活史』(筑摩書房新社)に聞き手として参加できることになった。500名超が応募して150人が選ばれ、最後は絞りきれず抽選になったそうなのでかなり運がいい。12月中旬に第1回の聞き取りを行って、今は文字起こし中。今回だけでも余裕で2万字を超えそうなのだが、本当に1万字に収められるのだろうか。

 

読書

長編の資料になりそうな本をよく読んでいた。ので、あまり小説を読めていない。ブンゲイファイトクラブ4も全作を読むのが精一杯で、観客として感想戦に参加するのが思うほどできなかった。残念だ。第1回のブンゲイファイトクラブで知った冬乃くじさんの変化を追うのが何よりも楽しかった。
思い出せる中で面白かった本は『みんな水の中』(横道誠)、『しらふで生きる 大酒飲みの決断』(町田康)、『おらおらでひとりいぐも』(若竹千佐子)、『きみだからさびしい』(大前粟生)、『自閉症スペクトラムの精神病理 星をつぐ人たちのために』(内海健)、『断片的なものの社会学』『街の人生』(岸政彦)、『書こうとしないかく教室』(いしいしんじ)など。
全体として、多声的な私や世界の把握の仕方について考えることが多かった。
来年はオーディブルに入ってみるつもり。


映画

今年は劇場で何本か映画を観られた。観た数は少ないけど、今井夏子の同名小説が原作の『こちらあみ子』(森井勇佑監督)はとても良かった。誇張された音の表現や、現実と想像の境がすっと溶け合う瞬間など、映画の中にこどもの感覚が横溢している。あみ子ほどアグレッシブではないが、私もかなりリアルのわからない子どもだった(そして今もなお折り合いをつけるのに苦労している)ので、観ていてけっこう苦しかった。非常に印象的な映画オリジナルの場面があり、そこは何気なく原作に大きく踏み込んでいるのだけど、あれは製作スタッフが姿を変えてスクリーンに現れたものに思えて、映画ならではの改変だったと納得している。主題歌の青葉市子「もしもし」は今もよく聴く。この映画そのものと「もしもし」がどういう解釈で作られたのかがパンフレットなどで明かされているのだけど、それ込みで聴くたびに泣いてしまう。

open.spotify.com

 

 

体調


肩を傷めてリハビリに通いはじめた以外は特になし。壊れかけのボロ椅子に座り続けていたらとうとう腰がゆっくりと壊れ始めたので、中古のvertebra03を6万円少々で買った。長時間座ることを想定した椅子ってオフィスでございゲーミングでございというデザインが多い中、バーテブラは見た目も良くて、まあいい買い物だったと思う。スタミナと集中力と自制心が人並み以下な自分はなんらかの底上げをしないとまともな人々と肩を並べて暮らせないのだ、という思い込みからサプリメントへの依存傾向があって、あれこれ試していたら10種類を超えてしまったのでさすがによくないかなと思い、今年の後半は飲むのをやめた。そしたら頭の調子があんまりよくなかったので、再開しようかと考えている。でもそうすると最近始めたプロテインとバッティングしてしまうな。

 

SNS

10年以上欠かさず続けてきたTwitterがなんだか見られなくなるという異常事態。すっかりつぶやかなくなって、これは今でも続いている。創作の不調と関係しているのか、いないのか、よくわからない。サブアカを作ったりもしたが、結局fedibirdというマストドンサーバに新しいアカウントを作った。@hachimoto8にいます。よろしくお願いします。

 

旅行

6月に四国を旅行した。徳島で甘い南京豆の入った豆天玉というお好み焼きを食べた。美馬市にあった「うだつの町並み」(うだつが上がらない、の由来となった建築物に付属する防火壁が保存されている区画)が良かった。愛媛県松山市のerimakiというお店でかなもけんさんの個展を見た。沢田マンションに泊まった。高知県越知町で武智幸蔵さんという素晴らしい彫刻をつくるおじいさんを知り、後日招き猫を購入した。たぶんまだ誰にも見せていないと思うので、最後にその猫の写真をのせます。来年が誰にとってもよき年となりますように。

 

 

 

マインドフルネスが嫌いです

これはマインドフルネスへの批判ではなく、「マインドフルネス瞑想に強烈な拒否感を持ってしまう私は、一体どのように世界や<わたし>を把握しているのか」を考えるために書いた日記です。

 

今回もだめだった。先日とある集まりにメンタルヘルスの専門家が来ていて、その人の作った音声データにしたがってその場にいる全員でマインドフルネス瞑想を実践する時間がもうけられたが、5分と保たなかった。
これまでにも何度が試してみたことがあるけれども、私にとってマインドフルネス瞑想はひどく苦痛である。瞑想は自然に湧き上がる思いや雑念を受け流し、ただ呼吸と体の感覚に集中することを要請する。とても耐えられない。呼吸に集中しようとしてもあまりの退屈さに呼吸がため息に変わり、続いて全身の関節をパキポキと鳴らすよくない癖があらわれ、とりとめのない思考が手綱の外れた馬のように暴れ回った挙げ句、思考を縛っている大本の原因たるマインドフルネスへの悪口で頭がいっぱいになってしまう。胸の中が悪罵に満たされているのは嫌だから、とうとうエイと瞑想をやめることになる。まだ決められた時間の半分も過ぎていないというのに。
そっと目を開けると、私以外の十数人はみんな目を閉じて静止している。一瞬屍のように見えてぞっとする。学校に通っていた頃はこういう瞬間が毎日のようにあったな、と思う。思う思う思う。記憶の再生が止まらない。頭の中にラジオがあって誰かが話し続けている。話す話す話す。そのラジオは決して電源を切ることができない。スイッチが壊れているのだ。もしくは、スイッチは隠されていて、私はその場所を知らない。苦痛だ。今すぐ椅子を蹴っ飛ばしてどこかへ行ってしまいたい。長い長い苦しみに耐えていると、「次の言葉を心の中で唱えてください」と吹き込まれた声が言う。よかった。瞑想のフェーズが変わったのだ。「私のすべてを許します」。ああああ、苦しい苦しい苦しい。助けてください。「大切な人へ。存在してくれてありがとう」。やめてください。叫びだしそうだ。私には悪魔がとりついているのかもしれない。そうでなければ、こんな苦しみに説明がつかない。私はとうとうこっそりとスマホを取り出し、Twitterを開いた。他人のどうでもいいような投稿をひたすらにスクロールする。嘘みたいに心が安らぐ。マインドフルネス瞑想が終わると、他の参加者たちはすっきりしたような表情をしていた。


その後数日、どうしてあんなに苦痛だったのだろうと考えた。マインドフルネス瞑想はもう何年も前から流行しているし、たくさんの人が実践している。だから効果のほどは一旦おくにしても、何かしら満足感や達成感を得られる仕組みがあるのだろう。そういう人たちと、苦痛しか感じない自分の違いはなんだろうか。ひとつ思いつくのは、<わたし>というものの把握の仕方が両者で違っているのではないか、ということだ。マインドフルネス瞑想では過去の記憶や未来への不安にとらわれることなく、「今ここ」の一点に集中することを目指す。そこでイメージされている<わたし>とはおそらく、何重ものベールに包まれた小さな粒のようなものだ。普段はさまざまな刺激と考えに包まれて姿が見えなくなっている、純粋で確固とした芯のようなもの。ベールを脱ぎ捨てて素裸の私を今一度見つめ直しましょう、といった姿勢がマインドフルネス瞑想の根幹だと思われる。一方で私の感じている<わたし>は、ひっきりなしにフラッシュバックする過去の記憶と自動生成されるおしゃべりと、目の前にある物、そしてそれらから飛躍して生まれる突拍子もない想像などがごちゃまぜに重なりあった上に、ぼんやりと偶然に結ばれる写像のようなものなのではないか。確固とした<わたし>というものはなく、ダイナミックに変化する状態であるし、活動でもある。だから目を閉じて視覚情報を遮断し、浮かんでくる記憶や考えは無視しろ、と言われると困ってしまう。<わたし>が像を結ばなくなるからだ。それで内側から崩壊するような苦痛を感じる。
そういえば、と別のことにも納得がいった。私の部屋に出るハエトリグモのことだ。私は彼らが大好きで、見た目が可愛いし小バエなどを食べてくれるので殺すこともなく共生しているのだが、デスクに向かって仕事をしている時、白い壁にハエトリグモがいるのを見つけると不思議と心が安定する。ただハエトリグモがかわいくて好きだからだと思っていたが、上記のような私のあり方を考えると、少し違うのかもしれない。ハエトリグモが出たとき、私は<わたし>の一部をそこ、つまりハエトリグモに預けているのではないか。ハエトリグモの目で広大な白い壁を歩き回り、獲物に向かって跳躍し、「ハエの汁うめー」などと感じているととても安らぐのだ。私の<わたし>はぼんやりした幻のようなものだが、目の前のハエトリグモは実在している。ハエトリグモに<わたし>を託すことで、少しだけ輪郭がはっきりする。

2022/10/29 コインランドリーに二回行った日

今週は仕事が忙しくて生活リズムが大崩壊し、混じりけのない純粋な完徹までしてしまったため「今日は絶対仕事しないぞ」と心に決めて過ごした。とても良かった。フリーランスなので濃度は違えど毎日何かしら働いているような感じで、たまに寝床から起き上がれない日があるとその日を休日だったことにする、という運用で長らくやってきたけれど、あれって別に休日じゃなかったなと今更ながら気付かされた。あれは「仕事しなければという焦燥感と無力感に責め立てられながらベッドに倒れ伏していた日」だ。「今日は休みだ、何をしようかな」と思いながら過ごすのとは全然違う。定休日とか作った方がいいのかもしれない。

朝早くコインランドリーに羽毛布団を洗いにいった。コインランドリーが好きだ。動いている様をずっと見てしまう。ドラムが揺れるほど激しく回転すると笑いが漏れるし、たっぷりした水に羽毛布団が浸っているのを見ると胸がぎゅっと苦しくなる。この気持ちはなんだろう。宇宙船みたいなフタのガラス面に風景が映り込むのもかなり良くて、前に座っている自分と車やバイクが行き来する道路とが、回転と重なり合って二重写しになる。いつかコインランドリーのことを書きたい。

みやこめっせで開催された「いきもにあ2022」に行った。2度のオンライン開催を経て3年ぶりの現地開催ということもあって、とても混雑していた。ブースの前に人だかりができて、生き物よりも人間がたくさん目に入る。なんらかの生き物が好きな人しかここにはいない。男性はフィールドワークをしている感じの、日に焼けて体の引き締まった人が多く、女性はアニマルまたはボタニカルモチーフのテキスタイルを身につけていることが多い。そして全体的に全員、目が遠い。自分も少しそうだからわかるのだけど、前方の一点を凝視しているようでいて視線の先がどこか今/ここではない遠いところに接続されているような、そんな目だ。同類が集まっているように感じて気分がとても安らいだ。ばらぬすさんのブースでアカマダラのポストカードを買い、あとはフィッシュレザーのガチャガチャ、アオアシカツオドリのクリアファイル、ヤマアラシのトゲなどいろいろ買った。大きくてのたのたした生き物を愛好するというサークル「Notari」で無配をもらったら、カレル・チャペック山椒魚戦争』を解説したイラスト入りリーフがついていて感動し、すぐさまブースに戻ってオオサンショウウオサコッシュを買った。うみねこ博物堂で買ったヤマアラシのトゲはとても鋭く、右手に構えると魔法のステッキのようによく馴染む。2時間半ほどうろうろし、図書館に寄って帰った。借りてきた横道誠『みんな水の中』の冒頭にビューヒナー『レンツ』の一節が翻訳され引用されていた。「ぼくが思うに、個々の生命形態に接すること、石、金属、水、植物に心を開くこと、花々が月の満ち欠けに合わせて呼吸をおこなうように、夢のようにして個々の自然物の本質を自分の内部へと取りこむことは、無限の喜悦であるに違いないのです。」そういうことかもしれない。

夕方家に戻って一息つこうとしたが、干しておいた羽毛布団がちっとも乾いていないことに気がついた。羽毛があちこち生乾きのお団子になっている。たかだか20分の乾燥時間ではダメだったのだ。このままでは今晩寝る時身体にかけるものがないし、仕方がないのでもう一度コインランドリーへ行った。まさか1日に二度も行くことになるとは。夕方のコインランドリーは朝よりまぶしくて、動いている洗濯機も多かった。8分間の乾燥を繰り返しながら布団が乾き切るのを待つ。乾燥工程も眺めるに悪くはないのだけれど、水や泡が躍る洗濯工程に比べると余生という趣があってあまり興がそそられない。たくさんの小物がスノードームのフレークみたいに渦巻いている他の洗濯機の方が魅力的だが、他人の洗濯物をじろじろ見るのは良くないと思って読書をした。もっともっとコインランドリーに行きたい。だけど私は羽毛布団を1枚しか持っていない。洗濯頻度はせいぜい半年に1回なので、そうそう行けないのだ。こんなに好きなのに、悩ましい。

鳩それぞれ

数日前から調子を崩していた胃腸は微不調くらいにまで回復した。ゼリーとポカリしか口にできなかった発症日から、りんご、どん兵衛、カステラ、おじや、ヨーグルト…とあやすように優しい食べ物を食べて、今日はもうほぼ普通に戻った。まだがっつりラーメンとか揚げ物という気分にはなれない。今日はサバを食べる予定。

 

天気が良いので散歩がてら外で作業をした。喫茶店のまわりには鳩がたくさんいて、窓際の席からずっと鳩が見えていた。日向でしゃがみこむ鳩、けんかをする鳩。暖かくなってきたせいか求愛行動をとる鳩も多い。小柄な(たぶんメスの)鳩をぶっとい(たぶんオスの)鳩が激しく追い回している場面を見かけることがよくあって、いつもキッショ~と思いながらじっと見てしまう。ブロロ! ブロロ! と鳴き声をあげ、首を激しく振りたてながら逃げる相手をどこまでもどこまでも追いかけていく。その感じが、あまりに情緒がないというか、性欲!!! という感じがして嫌だなあと思う。かと思えば、小柄な鳩同士がイチョ……イチョ……チュッチュ……という感じでキスしていることもある。こっちは一方的な感じがしないからまだマシだけれど、いちゃつき方が終電間際の南海難波駅にいるカップルみたいに生々しくて、見ているこちらはなんとなく気まずい思いをする。

このあたりの鳩は外のテラス席にいると図々しくテーブルの上に乗ってくるのだが、人の反応もまた色々だ。鳩に敵意を剥き出しにするおばあさんもいる。おばあさんは乗ってきた鳩を触れないように追い払って、地面にいる鳩にも足を振り回して威嚇する。おばあさんが去って、次にその席に座ったご婦人は、ぜんぜん鳩を気にしない。トレイをつつかれても嬉しそうに眺めているし、隣の席の人と鳩のことで何か談笑している。最後には買い物袋からパンを一つまみちぎって取り出して鳩に分け与えたものだから、他の鳩たちがめざとく寄ってきてテーブルの上は鳩が咲いたようになって、それでもご婦人は笑いながらどこかへ去っていった。話しかけられた隣の席の人も終始にこにこしていた。鳩もそれぞれ、人もそれぞれだなあと思った。