Joe Shishido, The Greatest ‘Gunman’ Star Ever

宍戸錠×矢作俊彦 対談──かつてこの国には「殺し屋」がいた

黒のディナー・ジャケット、黒の細いパンツ、黒のシャツ、パールホワイトのタイ──。「エースのジョー」は、不敵な笑みとともに銃口をカメラに向けていた。目にも止まらぬ早業だった。日活アクション映画へのオマージュ作品『アゲイン』を監督し、その脚本も書いた作家・矢作俊彦が錠を迎えた。マカロニ・ウエスタンより早くウドンウエスタンがあった時代が幻影のように浮かび上がった。
宍戸錠×矢作俊彦 対談──かつてこの国には「殺し屋」がいた

文・矢作俊彦 協力・佐藤利明
写真・マチェイ・クーチャ
スタイリング・井嶋和男 ヘアメイク・AKANE

矢作俊彦(左)と宍戸錠(右)
〈はじめに〉

昔々その昔、この国の映画産業が多くの俳優、スタッフを社員として抱え、途切れることなく映画を製作し、全国数千の専属系列館にほぼ毎週のように新作を配給していたころ、この国には『殺し屋』が実在した。

そしてその『殺し屋』、はたまた『拳銃使い』と呼ばれた男たちの、少なくとも早撃ちベスト5にランキングされる者は全員、日活映画、調布撮影所にたむろしていたのである。

なかでも群を抜いて凄腕の殺し屋、世界第3位の早撃ちを誇る拳銃使いが、エースのジョーだった。

私が初めて彼に会ったのはまさにそのころ、私は小学生で場所は映画館の闇がりだった。当時は銀座の並木通りも神戸の南京街も、ときに湾仔のロックハートロードも、それどころか、私が生まれ育った横浜の霧降る波止場さえ、ここではなく彼方、日活映画の銀幕の中に存在していて(実際、調布撮影所には銀座8丁のオープンパーマネントセットが築かれていたのだ!)、そこにはヤクザではなくギャングが、警官ではなく探偵が、人殺しではなく殺し屋、犯罪者ではなく拳銃使いがひしめきあう暗黒街が隆盛を誇っていた。

モスラやミッキーマウスなら親に連れられて会いに行ける。だが、好き好んで伜を『暗黒街』へ導く親はいない。小学生がひとり、日活の映画館に潜り込むというのは、つまりそういうことだった。

ある夜、彼は銀幕を抜け出し、私の勉強部屋に窓から忍び込むと、舌をチッチッと鳴らして笑い、こう誘った。

『コルトを握れ、街に出よう』

以来、途方もなく長くて短い時間、私は彼と街をさまよってきた。

こうしたわけで、私ほど詳しく『エースのジョー』を知るものはないと思うのだが、日活映画の専属スターであった宍戸錠という人物を、実はよく知らない。

これから売り出そうというヤサ男の二枚目俳優が、凄味のある敵役(つまりエースのジョー)を演じたいと、顔にメスを入れてしまったと言う。これだけでも一筋縄ではいかないが、また別のとき、映画スターを目指すものが顔つきを悪くしようと考えるものか。もっと男前になろうとしてしくじったのさ、などと前言翻す。

知ろうとしても、なかなか得体の知れぬまま、時間が経ってしまった。

ときに宍戸錠とは、エースのジョーを演じる俳優ではなく、殺し屋が世間を忍んで俳優を『擬装』し、演じているようにも思え、また恐ろしいことに、エースのジョーと宍戸錠を自在に行き来するひとつの別の人格があるようにも思えてくる。

宍戸錠は1933年、大阪・桜宮に生まれ、東京・滝野川で育ち、疎開先の宮城・白石で高校を卒業した。日大芸術学部3年のとき、日活第1期ニューフェースとして採用され、日活がアクション路線に舵を切ると、小林旭の『渡り鳥』シリーズ、赤木圭一郎の『拳銃無頼帖』シリーズの敵役、ライバル、ときに相棒として人気をはくし、日活ファンとは層の異なる、アメリカやフランスのフィルムノワール好き、海外ミステリーマニアなどの支持を得、瞬く間にスターダムにのし上がった。

エースのジョーの登場である。

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「チャンユー」が事故った

矢作:1961年ですね。初めて主演作が公開されたのは。いろいろ言われるけど、もう初めから主役昇格は決まってたんでしょう?

:あの年の1月だったな。チャンユー(石原裕次郎)がスキーで事故ったって、ロケ先に電話があった。どうなるんだろうって、みんな不安でな。ロケどころじゃないんだ。日活は、ほら、若い会社だからさ。演じる方も作る方も、みんな若い。おまけに人手が足りない。そこへ、屋台骨と大黒柱が折れちゃったわけだ。

矢作:しめた!とは思わなかった?

:バカ言え。それどころじゃない。おれは、ほら、日活アクションが好きだからな、何とか灯を消すまいと、それだけさ。それに、初めから主役昇格は決まってたんだ。

矢作:それが前倒しになったんですね。

:ただの主役じゃない。ダイヤモンドライン──4枚看板の1枚になった。

矢作:赤木圭一郎がゴーカートの事故で亡くなったのは、その翌月ですね。

:2月の21日だ。21歳で死んだんだ。ほら、な、ビリー・ザ・キッドみたいだろう。

矢作:ビリー・ザ・キッドを亡くしたパット・ギャレットみたいな気分だった?

:おまえは、どうしてそう話を盛るんだ。いつもいつも。──確かに戦友って言うか、調布には撮影所というよりスポーツチームの合宿所みたいなところがあったな。

矢作:もう『ろくでなし稼業』(最初の主演作)はクランクインしてたんですか?

:伊豆のロケから帰って来てラッシュを見た後かな。撮影所での事故だったからね。食堂の前を通りすぎるのも見ているし、大道具倉庫の鉄扉に激突する音も聞いている。

矢作:前に言ってましたよね。おれなんかに看板張らせて、日活は大丈夫かと……。

:そういう不安はあったさ。頬っぺたにアンコを詰めるようなヤツに、主役なんてやらせていいのか、とか。実際そう陰口叩くやつもいた。しかし片側じゃ、そのためにやったんだって思いもある。どうせやるなら、日本じゃ誰にもやれない、ポール・ムニやキャグニーのギャング映画みたいなのをやろうとか。人間、理由がたったひとつじゃ引き鉄は引かない。

矢作:しかし『ろくでなし稼業』はギャング映画じゃない。キャグニーというより後のベルモンドというか、もっと土着な……。

:それまでおれは、美味しい思いをしてきた。日活の主役には制約があってな、女は抱いちゃいけない。悪党でも殺しちゃいけない。それを全部おれが引き受けてた。

矢作:『ギターを持った渡り鳥』じゃ、渡辺美佐子を強引に犯しましたよね。

:そう。あれは最初の殺し屋だったからな。ところが、それで人気が出た。次からは少し人好きがするようにしろって言う。

矢作:人好きする殺し屋!笑いの取れる愛すべき殺し屋。制約を逆手にとったにしろ、60年近く前、あの時代じゃ画期的だ。

:いや、冗談じゃない。会社はしまいに殺し屋なのに殺すなって言い出す始末さ。

矢作:ああ、判った。だから『渡り鳥』のラストで、いつも旭の分までひとりで罪を被って自首するんですね。拳銃不法所持で。

:こっちも捻りを利かすしかないからな。『キザな殺し屋だって?文学的と言ってほしいね』とか。そのころになると、向こうの方から脚本に書いてくる。チッチッチッと舌打ちするとか、ニッと笑ってコルトを回すとか。こっちは面白くないからいろいろ捻りを利かす。『おれの面に色をつけたのは、おまえで3人目だ。前の2人は墓の下でおねんねしてるぜ』って、あの台詞を思いついたときは、これで10年食えると思った。

矢作:食えたんですか?

:今でも食ってる。拳銃より役に立った。

愛される殺し屋

矢作:主役昇格となれば、ますます制約がうるさくなったんでしょうね?

:まあな。当初、会社は『愛される殺し屋』で行こうと言う。で、アクションコメディーを考えた。今で言うなら、拳銃の腕を売って歩く人殺しも辞さないフーテンの寅ってところさ。面白そうだろう。

矢作:原作を書きたいくらいだ。

:ところが会社はあれも駄目これも駄目。すったもんだの挙句、悪党じゃないが善人でもないって話に落ち着いた。最後に自首しないって線を守るだけで精一杯さ。

矢作:アクションコメディーにしちゃ、アクションとリズムが足りませんね。

:それを言うか!いい度胸だ。

矢作:いや、面白かったんです。格別、凄く面白かった。日本の喜劇映画としては。

:しかたない。ルビッチやホークスが会社にゴロゴロいるわけじゃない。適不適も関係なく、ルーティンで回ってきた監督がいつもの仕事でこしらえる。それが日本のプログラムピクチャーってもんさ。エースのジョーとしては忸怩たるもんがあったにしろ、初日の動員が東京と横浜で4万8500人、5社のなかでトップの成績だ。

矢作:ひとりで客を呼べた。これは大きい。

:気分だけじゃない。実際、立場もでかくなる。言いたいことが少しは言える。

矢作:人を殺せる殺し屋ですね。

:まだ1本だからな。そこまでは言えない。だから西部劇さ。あのころ、日活は無国籍だ、あれじゃ現代劇じゃない、和製西部劇だなんて言うやつらが大勢いた。それなら本気で日本で西部劇をやってやろうじゃないのってことになったわけだ。

矢作:『早射ち野郎』(野村孝監督)ですね。役名もそのままエースのジョー。

1962年公開『きまぐれ渡世』。射撃の腕自慢、白坂譲次が孤児をあやしつつ、悪人も退治するコミカルなストーリーラインだった。タブカラーのコットンオックスのシャツや、I型のジャケットなど、60年代のアメリカンクラシックそのままのスーツスタイルが粋だ。

:エースのジョーってえのは、宣伝部の遠藤醇が付けたんだ。『ろくでなし稼業』の小田原ロケの時かな、夜中に彼と飲みながら「次は何をやろう」と話していて、『早射ち野郎』ってタイトルがすぐ泛かんだ。バンバン撃っただけで、日活は和製西部劇って言われるなら、セットも衣装も何もかも、まんま西部劇にしちゃえって、そこから始まってる。そのころ会社が、天城でゴルフ場経営に乗り出していた、その造成中の土地を西部の原野として使える。撮影所の隣に造っていた日活銀座(パーマネントオープンセット)の片隅に、西部劇そのままの街をセットで組むことができる。かといって劇団四季じゃあるまいし、日本人がアメリカ人をやるわけにはいかない。だったらどこか、日本の山奥にしちまえって話に落ち着いた。秘境にでっかいダムを造るというので町が出来、俄か景気に人が集まってきたって、一応設定はあるんだ。

矢作:あのときですね。ポスターに「早撃ち世界第3位、0.65秒」って惹句。

:あれも遠藤醇の仕事だね。0.65秒かどうかなんて計ったわけじゃない。西部劇といや『シェーン』だ。、だったら1位はアラン・ラッド。次は『早射ち無宿』のオーディ・マーフィ、その次あたりにしとくのがリアリティってもんだ。映画に必要なのはリアルじゃない。あくまでリアリティだ。そこまで張り切ったら、こっちも半端なことはできない。一番困ったのは、シングルアクションのリボルバーが日本にないんだ。コルトSAAとは言わないが、シングルアクションがないんじゃ態にならない。モデルガンショップから銃砲店、東京中を探したけどない。で、結局、自分が撃鉄を動かしているように芝居で見せることにした。

矢作:ダブルアクションでも撃鉄は止まるでしょう。ダーティ・ハリーの”Go ahead. Make my day.”みたいに。

:いや、そんな立派なものじゃない。あのころあったのは、ただのトイガン。引き鉄がガチャガチャだけのものだ。日活コルトなんて、どこも動かない。中に電池が入っていて、スイッチを入れると3回火薬を破裂させるだけ。中田商店のモデルガンが出てくるのは、3、4年後のことさ。

矢作:スタッフのサポートはないんですか。

:好きなやつはひとりかふたり。脚本の山崎巌も、監督の野村孝も、(小林)旭の映画でやるようなことをやらせればいい程度だから、志が違うんです。野村監督に至っては「ガンベルトが邪魔だから、外して」なんて言い出すほどだ。でもこっちは納得しない。やるなら本気でやらないと、バカなことならバカなことほど、本気じゃなければ客は呼べない。衣装にしたって、厚手のカシミヤの黒の上下を誂えて、皮のベストを渋谷で買ってきて黒のスエードを貼って作ってね。それこそ『シェーン』のジャック・パランスか、『ヴェラクルス』のバート・ランカスターみたいに仕立て上げた。オープンセットの中心に西部劇によく出てくる、スウィングドアを開けるとサルーンで、その上の階が流れ者たちの宿になっているホテルのセットをこしらえたのもおれの仕掛けだ。

矢作:背中を向けて瞬間、敵が抜いた拳銃を後ろ蹴りにして、落ちてきたのを宙で受け止め、敵の鼻先に突きつける。あのワンカットは凄かった。

:エースのジョーには造作もないことだ。

矢作:ぼくの『ザ・ギャンブラー』(1992年)に出てもらったときも、2度凄いことがあった。一度は川地民夫さんに向かって、まったく後ろ向きで、しかも椅子に座ってウィスキーの瓶を投げる。川地さんは頭上10センチでそれを受けた。いや、相手が同じ日活スターならまだしも、もう一度はほとんど素人の役者が走りながら投げた拳銃を走りながらキャッチして、振り向きざま、持ち替えずに背後に向かって撃つ。二度とも距離は7、8メートルあった。何であんなことができるんですか?

:誰に聞いてる?忘れたか。

矢作:すいません。

:しかし、あの映画じゃしまいにひどい目に遭った。例のサルーンを出て、『真昼の決闘』よろしく敵が待ち構える町並みを進んでいくシーンで、ほら、回転しながら屋根の上の敵を倒すシーンがあるだろう。あそこで、敵の弾が背中に当たっちゃってな。エースのジョー、生涯の不覚だ。空砲の火薬が多すぎたんだな。空砲のキャップが燃えながら飛んできて当たったんだ。

矢作:実銃使ったんですか!それにしても空砲のキャップならボール紙でしょう。

:それがめり込んだ(シャツを捲って背中の傷を見せる)。排莢をきれいに見せたくて持ち道具が装薬を奢ったんだ。慈恵医大に運ばれて即入院。後で石原プロモーションの番頭になる製作主任と、助監督が見舞いに来て「今日明日は休みにします」って言ったのに、翌朝になったら「今日、撮影できたら封切りに間に合います」と来た。病院抜け出してなんとか撮了に持ち込んだ。しかも公開したら、これも大ヒットして、ウドンウエスタンなんて言葉まで生まれた。『荒野の用心棒』が3年後だから、マカロニウエスタンよりウドンウエスタンが早かったんじゃないか。

モノクロとカラーを使い分けた大胆な映像が話題になった1963年公開の『野獣の青春』。途中、宍戸錠が銃身を切り詰めた散弾銃(ソードオフショットガン)を構えるシーンでは、実銃のように頬付けをし、銃身を下げ、鋭く狙いを定めるシーンがある。

『メキシコ無宿』

矢作:その後、主演作は次々とヒットを飛ばして、毎月1本は主演作が作られるようになる。会社も本気になって西部劇の本場、メキシコまで本格ロケした超大作を……。

:『メキシコ無宿』な。あの話はあまりしたくないんだ。

矢作:確かに。蔵原惟繕監督(『俺は待ってるぜ』『憎いあンちくしょう』)だというのに、何てえザマという仕上がりだった。

:そこまで言うか!おれがウンザリなのは映画の出来じゃない。実を言うと、あのロケじゃ、ほとんど立って歩けなかったんだ。直前、国内の撮影で足をぶっ壊してな、片足が後ろ向きに捻れて踵が無くなった。

矢作:踵が無くても歩いてみせまさあ!ってのは日活じゃない、歌舞伎ですよ。その割りに、映画じゃけっこう飛び跳ねてた。

:そこが勢いさ。勢いだけでやってたようなもんだ。おれも日活も。

矢作:同じ頃、『ひとり旅』って映画があるでしょう。『エースのジョー』を主人公の役名で使ったのは、『早射ち野郎』と『紅の銃帯(ガンベルト)』、それにこれだけだって昔、聞きましたが。

:『ひとり旅』ね。斎藤武市監督に山崎巌の脚本。まんま『渡り鳥』のコンビだ。悪党の犯罪現場にやってきて、銃を突きつけ“悪党税”と称して上前をハネる。

矢作:東京・横浜のギャングどもが、これはたまらんというので談合して、ジョーを罠に嵌めるんです。大きな密輸取引のガセネタを流しておびき寄せる。それで、開幕早々エースのジョーは殺されてしまう。ところが、そのギャングが次々と襲われ始める。現場にはジョーの復活を匂わせる証拠が残されている。その後、死んだはずのジョーが、昔の女の元に姿を現す……。

:そう。ありゃあ(西部劇の)ゴーストライダーものだ。復活したおれは双子の弟でした、ってオチだろう。

矢作:ヒロインは浅丘ルリ子。彼女との共演は他に『危いことなら銭になる』だけか。

:(小林)旭のヒロイン、天下のルリ子とついに共演しましたッ!てところかな。カンがよくて……天性の女優だよ。──となると白木マリが昔の女で踊り子か何か。ルリ子はギャングに騙され、ジョーを父親の仇とつけ回すんだが、いつしか惹かれてしまうというパターンだ。

矢作:弟はジョーと違って根っからのカタギで人を殺すどころか怪我させるのもためらうようなタイプ。なのに何故、拳銃が上手いのか、そこが謎なんですけどね。さっきの話で分かったんだけど、これはまさに会社の制約を逆手にとったという意味で、ひとつの『傑作』ですね。だって敵役だった殺し屋のジョーと日活の主演スターであるジョーのふたりが、ひとつの映画で愉しめるわけだから。しかも舞台がほとんど横浜──意外に少ないんですよ、最初から最後まで横浜、それも伊勢佐木町、中華街ロケって。主人公が2階に住んでいた食堂兼バーなんか、ちゃんとロケセット建ててるし。税関から運河を鉄橋で渡った向こう端、昔、『俺は待ってるぜ』で裕次郎でやってた酒場のロケセットの筋向かい。ぼくにとっては斎藤武市の唯一の功績!

:そう言うなよ。叙情の人だから仕方ないんだ。なんせ小津安二郎の『東京物語』で優秀な助監督だった方なんだから。

矢作:最後の銃撃戦が横須賀の猿島で、そこへ車で急行するギャングを、並走するボートから別の一味が蜂の巣にする。そのボートを、また別の一味がヘリから銃撃して皆殺しにする。見せ場も満載だ。

劇中では“カービン銃”と呼ばれるライフルが登場するが、M1カービンとはディテールもまったく異なる代物であった。しかし、エースのジョーはライフルの扱いにも長けており、写真の通りアンブッシュのアクションも見事だ。『拳銃残酷物語』。1964年に公開。

:日活にしては大掛かりな撮影、というか、そう見せかけようってあの手この手、毎日苦心惨憺、知恵を絞ってたんだ。

矢作:猿島って、よく使いましたよね。

:ああ。『殺しの烙印』をはじめとして。

矢作:『殺しの烙印』か。あれ、ぼくには宍戸錠の主演作ではあっても、エースのジョーの映画には見えないんですよ。鈴木清順ならむしろ『探偵事務所23/くたばれ悪党ども』。あれは大傑作だ。

:主人公は殺し屋じゃなく私立探偵だぜ。

矢作:それでも、ぼくにはそうなんです。

:脚本は山崎巌、原作は大藪春彦、監督が鈴木清順。ゴールデントリオだな。

矢作:冒頭、深夜の立川基地。ペプシコーラの輸送トラックが、マシンガンで穴だらけ、ペプシを垂れ流し、最後にパンクする。おまけに乗っている方もギャングなんだ。タイアップなのに、考えられない。

:製作費が足りないと、特にロケじゃ製作主任が地元の企業や店にタイアップを申し入れるんだ。あれは多分、本社じゃなく専属で輸送してる地元の代理業者か何かのトラックだったんじゃないか。ともかく、面白くするためなら危ないことでも何でもやっちゃう。清順さんは殊に、ベルトコンベアで作ってた同工異曲の日活映画の中で、常になにか新しいことを模索してた。

矢作:山崎巌は、ベルトコンベアに乗って量産していた方、だから面白くなった。

:さっき言ったろう。俺が「チッチッチッ……」とやると、次のホンにはそれが書いてある。現場で考えたものが、次にはパターン化されている。それでいいという監督もいたが、清順さんは、現場でワーっと書き直してしまう。映画は見せ物小屋だっていうのがポリシーだ。ヒロインの笹森礼子ね。『男を知らない情婦』なんて無茶苦茶なことを思いつく。殺された父親の復讐のためにボスの情婦になっているけど、そのボスが不能だなんて、凄いだろ。金子信雄さんの刑事も良かった。でも清順は嫌いなんだ。このおれに歌を謳わせやがって!

矢作:あそこ、素晴らしかったじゃないですか。星ナオミと掛け合いで歌いながらチャールストンを踊る。日活名物キャバレーシーンの中でもベスト3に入る。あんな可愛い星ナオミを他で見たことがない。

:ダンスはいいんだよ。あれは体だ、アクションと同じ。しかし、歌がなあ……。

矢作:殺し屋の意外な弱みだ。

:ギャング団に潜り込んだ探偵が、その取引現場のキャバレーで昔の女に出くわす。バレたらヤバいってサスペンス。そこでいきなり女を默らせるため踊りだす。すると女が歌いだすんだ。あんたは昔の男で、金を持ち逃げしたとかなんとか。『駄目な男だが惚れてんだ~!』って。そこで本名を明かされるんじゃないか──。こんなサスペンスはハードボイルドの常套だが、それをミュージカルに仕立てる。そこが清順さんだ。会社は最低、年間102本は作らなきゃならないからね。そのベルトコンベアの中で、いかにあの人が工夫していたか。それがどんどん煮詰まって『殺しの烙印』になってしまうわけさ。大抵1本、3週間で撮るんだが、その猛スピードの中で、どう面白く見せるかしか考えない。思いついたことをメモして、「これどうしたらいい?」と助監督に聞くんだが答えられるやつが少ない。

矢作:で、エースのジョーの登場だ。

:一緒に考えたり、アクションのことなら逆にアイディア出したり、その程度さ。『ろくでなし稼業』のコメディ路線や『早射ち野郎』の無国籍アクションもいいんだが、最初から『探偵事務所23』や『野獣の青春』『殺しの烙印』のハードボイルド路線でやってくれたら、日活アクションはもっと別な方向に行ったかもしれないな。

宍戸錠の初主演作品『ろくでなし稼業』。おそらくL-2Bだと思われるフライトジャケットを着こなしている。(©日活)

カメラ位置まで考えた

矢作:その路線の、まあ頂点と言えるのは、清順ではなく野村孝監督の『拳銃は俺のパスポート』でしょう?1967年か。

:遅かったって言いたいのか?やっと出来たって気持ちは、おれの中にもあったな。これは代表作だ。間違いないって気持ちもだ。永原秀一のホンを山田信夫がまとめた。監督はたしかに野村孝だけど、B班は長谷部安春なんだ。旭の『俺にさわると危ないぜ』で監督デビューしたんだが、フィルムを使い過ぎてホサれていたんだな。カーチェイスに切れ味があるだろう。

矢作:ラストのガンファイトは、錠さんが殺陣からカット割り、カメラ位置まで考えたって聞きましたよ。

:言わぬが花だな。まあ、「チッチッチッ」に始まって、この映画のガンプレイまで(まったく遮蔽物のない埋立地で、展開して向かい来る敵に対し、拳銃を放り投げ、散弾銃で応戦しながら走り、投げた拳銃に飛びつき、跳ね起きざまに移動しながら最後の敵を射抜く)みんな自分で考えたのは事実さ。最初の大ボスの狙撃もね。

矢作:アタッシェケースに座って射つ?

:ああ。嵐寛寿郎さんを撃つんだからな。なんたって鞍馬天狗の小父さんだから。終始無言で、ライフルを組み立て、仕事を全うする。メカニックな描写も含めて、自分が考えてきた理想の殺しだったぜ。

矢作:日本庭園と鯉が泳ぐ池のある豪邸、それを見下ろす真新しいマンション。

:そうね。この頃になると、東京も横浜も街並みがどんどん変わってきてね。横浜のカーチェイス。あれも良かっただろう。

矢作:あの道、ぼくの子供時代の三輪車の周遊地ですよ。家もチラッと映ってる。

:高飛びしようと羽田空港に行くだろう。敵に嗅ぎつけられ、そこでもカーアクションが起こる。あれも切れがある。空港が撮影許可をくれてね。いい時代だったなあ。

矢作:ラストの埋立地は川崎の扇島ですか。

:何もないだだっ広い荒地な。スコップで黙々と穴を掘るところから始まる。──西部劇の墓穴を思い出したろう?あそこも長谷部なんだ。真冬の荒地をハエが這い、飛び立つ。目で追うおれのクローズアップ。

矢作:全編でたった一度の殺し屋の微笑。

:撮影は1月だ。助監督が血眼で探したが、ハエなんかどこにも見つからない。何のことはない、日活撮影所の食堂の裏にいっぱいいた。

矢作:あの穴も象徴的で、ロマネスクでね。映画的なトリックとしても見事だった。

:だが会社はあの方向に舵を切らなかった。あの直後、同じトーンの殺し屋ものを永原秀一がおれのために書いたんだが、結局ボツ。浅丘ルリ子と一緒に他社へ流れて行った(東宝映画『狙撃』68年のこと)。

“エースのジョー”が暗黒街の暴力組織に立ち向かう。この作品でも段返り3つボタンのジャケットを着用する。シャープだ。1962年『ひとり旅』。

消える日活銀座

矢作:この年以降、主演作が目立って減っていく。エースのジョーはこの年つくられた渡哲也の『紅の流れ星』を最後に日活のスクリーンからいなくなってしまう。

:すでに会社が下り坂を転げてたんだ。日活銀座は廃屋と駐車場になり、ホテルもゴルフ場も売却──。テレビに押され、映画は東映のヤクザものが全盛を迎えてた。

矢作:そうですね。映画がもの凄い勢いでヤクザ、任侠、日本土着の肉体に先祖返りしていった。結局、日活無国籍アクションは、ひととき咲いたお伽話。前々から、戦後民主主義と同じく、時代の徒花だったんじゃないかと思ってきたけど、安藤昇や町井久之、『ニコラス』の創業者の評伝を読んだり安部譲二さんの話なんか聞くと、まんざらそうでもない。東京の一角にギャングが徘徊し拳銃が唸る暗黒街があった。そうなると日活が描いた世界だって、この国の歴史の短い一瞬を映し出して──。

:おい、勘弁してくれ。エースのジョーは戦後民主主義の暗喩だなんて言い出すのは。だいたい、戦後民主主義は非武装だ。

矢作:非武装平和主義は戦後憲法。民主主義は昔っから二丁拳銃ですよ。

:コルト・ピースメーカーってか?──しかし、『拳銃は俺のパスポート』がもっと早く作れたら、そして大当たりしていたらってな。エースのジョーとしては、今でもそう思うよ。“人を殺せる殺し屋”になるまで、7年もかかっちまった。ああいうハードボイルドがもっと早く沢山作られていればなぁ。

矢作:ハードボイルドか。もう無理だろうなあ。戦後民主主義より難しい。だって、相手がどんな悪人だろうが、人を撃つと、いや、コルトを懐に入れて歩いただけで、警察やワイドショーだけじゃなく、今じゃ、酒場のバーテンダーやキャバレーの踊り子からまで袋叩きにされるんだから。だいたい今のスーツって、シルエットがパツンパツンのつんつるてんで、コルトなんかどこにも隠せないんですよ。

:そうだな。いやな時代になったものだ。

宍戸 錠

俳優
1933年生まれ。1954年に日活撮影所へ入所。1955年に『警察日記』でデビュー。1961年『ろくでなし稼業』で主演を果たし、“エースのジョー”として活躍する。著書に『シシド 小説・日活撮影所』(角川文庫)、『シシド 完結編 小説・日活撮影所』(角川書店)がある。

矢作 俊彦

小説家
神奈川県横浜市生まれ。1972年「ミステリマガジン」に短編小説を発表、1980年に発表した大友克洋との合作コミック『気分はもう戦争』がミリオンセラーに。Bunkamura ドゥマゴ文学賞、三島由紀夫賞ほか多数受賞。