(社説)万博まで1年 「なぜ今」見えないまま

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 関心を集めるのは、外国パビリオンの建設の遅れや相次ぐ経費の膨張など、否定的な話題がもっぱらだ。その一方で、多額の公費をかけて55年ぶりに開催する意義は、いまだに見えてこない。

 大阪・関西万博の開幕まで1年を切った。会場となる大阪湾の人工島「夢洲(ゆめしま)」では、工事車両が行き交い、あちこちで建設作業が進む。

 19世紀に産業見本市として産声をあげた万博は、国威発揚の場に使われた。高度成長期終盤の1970年に開かれた大阪万博も例外ではない。その歩みが限界に直面するなか、博覧会国際事務局は94年に「地球的課題解決の場」と万博を位置づけた。

 今回の開催も、こうした流れの中にあるはずだ。だが、「いのち輝く未来社会のデザイン」というテーマは漠然としており、「イメージが湧かない」との声が強い。ネットを通じて海外のモノや情報が簡単に手に入る時代に、博覧会という形で、半年間限りのイベントを催すことへの疑問も少なくない。

 投じられる公費に厳しい視線が注がれるのは当然だ。会場建設費が当初の2倍近い2350億円に達したことへの批判に加え、344億円をかけて整備する1周2キロの木製建築物「大屋根」や、1カ所で最大2億円近いトイレなどが問題視されている。

 開催に責任を持つ政府と誘致を唱えた大阪府市、準備と運営を担う万博協会は真摯(しんし)に受け止めるべきだ。ところが、逆に批判を封じようとするかのような言動が続いた。

 大阪府の吉村洋文知事は3月下旬、万博に批判的なテレビ出演者を名指しし、出入り禁止にする趣旨の発言をした。問題ないとの認識を示していたが、吉村氏は万博協会の副会長だ。謝罪と撤回に追い込まれたのは当然だろう。

 大阪市の横山英幸市長も、万博開催に伴う市民1人当たりの負担額に関する市議会での質問に不快感を表し、「市民の不安をいたずらにあおるだけだ」と批判した。なぜ市民が不安を抱いているかを考えることこそが、首長の務めではないのか。

 夢洲は開発が進まず「負の遺産」と呼ばれていた。大阪維新の会が打ち出した起死回生策の一つが、万博だった。

 政府や大阪府市は、開催の意義として、海外からの観光客の増加や関連インフラの整備を強調する。これでは70年当時の発想から抜け出せていないと言わざるをえない。

 新しい時代にふさわしいメッセージを明確に発信し、国民と共有できるか。開催する側が果たすべき責任は重い。

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