「ミッドサマー」で起きたこと。あるいはダニーの笑顔について。

 アリ・アスター監督の最新作「ミッドサマー」を見た。結論から言うと全然怖くはなかったし、特にグロテスクでもなかったし、エッチなシーンには謎のぼかしが入っていたのでエロティックな感じもしなかった。綺麗な映像と生々しくも気まずい人間関係が延々と続く、そういう類の映画である。その意味では、「フレンチアルプスで起きたこと」とか、そっちの方に近い作品であるかもしれない。
 さて、本作の最も素朴な読解は家父長制社会と母権制社会の対立、あるいは自主自立という「男性原理」と、共感共振という「女性原理」の対立として読むというものだろう。実際、この映画の9割程度はこの読み方で理解することができるだろうし、そうしたレビューも多く見る。しかし、そのような素朴な読解は「ミッドサマー」という作品のもっとも根本的な問題を見逃しているように思える。本作を現代社会の冷たさに苦しんでいるダニーが、ホルガというコミューンによって救われていく物語として単純に読んでしまうことは、かなりリスキーな試みでもある。以下では、そうしたことについて書く。

 まずは本作の構造をおおまかに整理しておこう。「ミッドサマー」には、大きくわけて二つの陣営が存在する。一つはダニーの恋人クリスチャンとその友人たちに代表される(プロテスタント的な価値観に支配された)現代米国社会、もう一つは夏至祭の舞台となるホルガというコミューンである。
 前者(ということは我々の生きる社会)における規律は、「自立」である。個々人の権利を重視し、プライバシーを尊重し、自由な自主決定のもとで人生を営む。それは逆に言えば、個人のプライバシーを侵害するような、あるいは自主決定を阻むようなファクターに対して極めて冷酷な社会ということでもある。そのような社会では「相手に頼りすぎないこと」「依存しないこと」が重要な規範となり、それを満たすことができない人間は面倒な存在、「重い奴」として忌避される。
 しかし一方で、この社会には「弱った人を見捨ててはいけない」という規範も存在する。このジレンマを最もよく表しているのが、ダニーの恋人クリスチャンである。彼は「メンヘラ」「重い女」であるダニーと別れたいと一年以上思っているが、彼女の家族が心中してしまったという悲劇のためにそれを言い出すことができなくなっている。何かあるたびにべったりと依存してくる(彼に感情的な共感を求めてくる)ダニーは現代社会の規範を害する存在であるため鬱陶しく、手を切りたいのだが、そうしてしまうと今度は自分が「弱った人を見捨てる」という規範を破った悪人となってしまうため、それが出来ずにいるのだ。
 では後者=ホルガにおける規範とは何か。前者との対比で言うならばそれは「共感」あるいは「共有」ということになる。ホルガにはプライバシーはない。寝床は仕切りもない建物の中だし、食事は全員が同じテーブルにつき、構成員は全員が同じライフサイクルを共有し、性交でさえ大勢のなかで見守られながら行うことになる。
 それが最もよく現れているのは、ホルガの人々が行う「感情の共振」である。クリスチャンの「浮気」を目撃したダニーは部屋のなかに駆け込み一人で泣き崩れようとする(彼女はつねに一人きりで泣こうとする。もちろん、それが彼女の属していた社会における規範だからである)のだが、それをコミューンの女性たちが取り囲んで一緒に泣き叫ぶ場面がある。人間の感情の揺れを受け入れられないクリスチャンたちと違い、ホルガの人々は相手の感情の揺れに合わせて共振する。他者から自分の感情を受け入れられ、共有してもらうことで初めて、ダニーは自分の感情を肯定してやることができる。このようなセラピー的な過程を通じて、ダニーは癒され、ホルガという本当の「家族」を手に入れるのである。
 しかし、本当にそうなのだろうか?

 問題となるのは、本作のラストカットである。クリスチャンたちを生贄に捧げ、彼らに火を放つラストシーンにおいて、ホルガの人々は絶叫する。それは生きながらにして火に焼かれるという犠牲者たちの想像を絶する苦痛に共振しているからだ。だが、ダニーだけはそうではない。村人たちが絶叫し、泣き叫ぶなかで、ダニーだけは一人笑みを浮かべている。彼女は他の村人のように、犠牲者たちの苦痛を共有していないのだ。映画はその不気味な笑みを映して終わる。
 もし仮にダニーが現代社会の規範から脱し(かつての恋人を焼き殺すのはその象徴だ)、ホルガというコミューンの一員となることを選んだのであれば、彼女はこの最後の場面において泣いていなければならない。それがコミューンの基盤をなす原理だからである。だが、ダニーはこの規範に従っていない。彼女は犠牲者たちの苦痛を共有するのではなく、自分がダメな男と手を切れたことを喜び、生まれ変わった自分に満足している。だからこそ、あのような笑みを浮かべるのだ。
 つまり、ダニーはコミューンの存在によって癒され、救われ、そして生まれ変わることができたのだが、彼女自身は依然としてコミューンの規範には従わず、エゴイスティックな喜びに浸っているのである。「ミッドサマー」がダニーという主人公に与えた最大の欺瞞がここにある。


 そもそも、この作品はダニーという人物の欲望を完璧なまでに満たすように展開する。作中ではしばしば、ダニーが両親や妹の死に罪悪感を覚えているような描写がある。(背景の森にとけこんだ妹の死体、物言わぬ母の幻覚など)。先ほどクリスチャンのジレンマについて書いたが、実はこのジレンマはダニー自身も抱えていたものである。ダニーの妹は双極性障害で、彼女は常に妹の言動に振り回されて生きて来た。ダニーは妹のことを心配しているが、同時に重荷にも感じており、そのせいでクリスチャンに捨てられるのではないかと悩んでいる。(恋人が自分を捨てるのではないかという不安は、だから自分が妹を捨てるのではないかという不安とパラレルである)。
 彼女のジレンマは、妹による一家心中という形で無理やり解消されることになる。妹が自殺したことにより、ダニーは重荷から解放され、恋人から捨てられるという不安からも(一時的に)解放される。猿の手を思わせる皮肉な願望成就がここにはあるのだ。家族の死はダニーにとってとてつもない悲劇である。しかし、悲劇そのもの以上に彼女を苦しめているのは、自分が心の底で、その悲劇を望んでいたのではないか?という疑念に他ならない。
 ホルガでの物語も、彼女の欲望を叶えるかたちで進行していく。彼女のことを快く思っていない恋人の友人たちは次々と失踪し、ホルガの一員であるペレは彼女の悲劇を理解し、共感を示してくれる。(興味深いのは、ここでペレが自分の身に起こった悲劇を話しても、ダニーの側は一切の共感を示さず、拒絶するような態度を取っていることである)。やがて、彼女はダンスを通じてホルガの女性たちと通じ合い、女王に選出される。そして冷え切っていた恋人は村の女との浮気を余儀なくされるのだ。
 クリスチャンはほとんど何かに操られるようにして、村の女性との性交に至るのだが、ここでは出来事の順序が重要である。彼は基本的にどうしようもないクズ男なのだが、自分から村の女性にアプローチをしたわけではない。事態が展開するのは、ダニーが女王となった後だ。ダニーはクリスチャンに裏切られた後で女王となるのではない。女王となった後に、クリスチャンに「裏切られる」のである。
 ダニーが女王として選ばれた直後から、クリスチャンは完全にコミュニティのなかで孤立する。集合写真にも一人だけ写らず、食事にも大幅に遅刻する。ホルガの伝統衣装に身を包んでいないのは、もはや彼1人である。この時点で、力関係は逆転し、すでに恋人は不要な存在となりかけている。ダニーは完全にクリスチャンよりも優位に立っているのだが、それでも彼を捨てることはできない。なぜならそれは、規範に反する行いだからだ。もしここで自分が恋人を捨てれば、ダニーは悪人になってしまう。
 ダニーはクリスチャンから自由になりたいが、自分の側が悪人になることはできない。であれば、クリスチャンに悪人となってもらう他はない。だからこそ、彼はマヤと性交をするよう誘われるのである。ここにもまた、転倒した願望の構図が存在する。恋人から自由になりたいというダニーの無意識の願望を満たすべく、ホルガの物語がクリスチャンに浮気をさせるのだ。「ミッドサマー」がダニーのためのセラピー映画だという主張はある意味では正しい。ホルガの世界は、彼女の感情を肯定し、願望を叶える。ただし、最悪のやり方で。

 これは決して、ダニーが悪人であるということを意味しない。彼女は常に事態に巻き込まれる側、被害者の側である。ダニーが妹を殺したわけではないし、自殺するよう唆したわけではない。スウェーデン旅行に連れて行けと自分から言い出したわけではない。クリスチャンに浮気をさせたわけではない。「ミッドサマー」の世界は、けれどダニーが心の底に隠している欲望を先回りして叶えて見せる。我々はみな、現代社会の表面的な人間関係に疲れている。愛していないことがわかっていながら、あたかも愛しているふりを続けなければならないことに疲れている。だが、同時にそのゲームを自分からやめることもできないのは、それによって自分が悪しき存在になってしまうことが嫌だからだ。しかし、もしもその願望をすべて肯定し、叶えてくれる楽園があったとしたら?相手が一方的に破滅し、自分がイノセントな存在のまま関係性のゲームから下りることができるのだとしたら?ラストのダニーの選択は、そして彼女の笑みは、彼女がその楽園の誘惑に屈したことを意味している。ダニーは決して、ホルガというコミューンの一員になったわけではない。彼女らと同じ生き方を、規範を共有したわけではない。全てが終わった後で、彼女はただ認めたのだ。自分が相手の破滅を願っていたことを。「ミッドサマー」という作品で起こったこと全てが、彼女の願望であったということを。

 最後にもう一つ、付け加えておこう。「ミッドサマー」はダニーの物語であり、彼女のための物語でもある。本作がダニーの視点から描かれた物語であることは、監督自身もインタビューで語っている。他の人物の視点から見れば、また違った物語があるだろうと彼は言う。視点の違いとはすなわち、立場の違いでもある。死んだ者と生き残った者との違い。溺れたものと救われたものとの違いだ。けれど、その違いこそがホルガというコミューンが無化しようとしているものに他ならない。村人たちは感情の共振によって互いに同化し、個々の立場の違いを限りなくゼロに近づけようとする。焼かれた者の悲鳴を反復し、ともに絶叫することによって。しかし、その中にはダニーのあの冷たい笑みが紛れ込んでもいる。

 本作のラストシーンがおぞましいのは、単に人間が火あぶりにされているからではない。火あぶりにされた人間と火あぶりにした人間の差、その絶望的な立場の違いを、ホルガの人々があたかも「ないもの」であるかのように扱うからだ。火あぶりにされた者たちの苦痛は当人にしかわからない。いくら彼らの絶叫を反復し、その恐怖に共鳴したところで、殺した者と殺された者の差がなくなるわけではない。ホルガの人々は一方でその隔たりを保持しながら、同時に感情のレベルではそれを「ないもの」にしようとする。そのようなことがあたかも可能であるように思い込む欺瞞。行為のレベルでは残虐な罪人でありながら、倫理のレベルでは善人であろうとする欺瞞。それこそが、ホルガというコミューンのおぞましさの、その本質なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?