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旧統一教会・戦後保守・岸信介…安倍元総理銃撃事件犯人の世界観とは?

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
訪米する岸信介(写真:Shutterstock/アフロ)

 世界を震撼させた安倍元総理銃撃事件から数日が経ち、犯人である山上容疑者の犯行動機が明るみになり始めている。報道によると、「家庭を壊した団体を日本に招いたのが岸氏(岸信介)で、その孫の安倍氏を狙った」とし、その「団体」とは世界平和統一家庭連合(旧統一教会、以下旧統一教会)であり、7月11日に田中富広会長が山上容疑者の母親が信者であり、「1カ月に1回程度の頻度で、教会の行事参加していた」旨を認めた。

 ではこの「家庭を壊した団体を日本に招いたのが岸氏(岸信介)で、その孫の安倍氏を狙った」という山上容疑者の身勝手な世界観をどのようにとらえたら良いのだろうか。

 結論として、銃撃は許されざる犯行であるが、山上容疑者の言う「家庭を壊した団体を日本に招いたのが岸氏」というのは、解釈の余地はあるが、事実として極めて的外れである、とは言えない。そして安倍元総理が旧統一教会と関係があるか無いかについては、「ある・なし」で言えば「ある」と言わざるを得ない。問題はその濃淡である。犯行は司法の手によって断罪されるべきだが、重要な動機とみられる山上容疑者の世界観について、可能な限り補助線を引き、これを紐解く必要がある。

・逆コース、岸信介、戦後右翼

 旧統一教会・戦後保守・岸信介という三者の関係性は、戦後保守政治史を少しでも齧っているものであれば常識的である。そしてこれら三者の関係性は戦後保守の構造の根幹に位置するものであり、歴史的観点から俯瞰的に見ていく必要がある。

 まず旧統一教会と戦後保守はどのように関係していたのか。話は戦前に遡る。ロシア革命・ソ連の影響で戦前から日本にも共産主義者が多く存在していたが、戦間期・戦中は彼ら共産主義者は国家権力により徹底的に弾圧された。日本の敗戦により国家からの抑圧が無くなると、戦前からの共産主義者は続々と復活した。1946年に日本共産党が復活(合法化)し、衆議院で議席を得るが、まもなく東アジアでも東西冷戦の対立構造が激化すると、GHQは共産主義者を公職や企業から追放する指示をした(レッドパージ)。

 1948年からGHQによる日本の占領政策は大きく変更され、それまでの「日本の非軍事化・軍国主義につながる経済力の制限」から「日本を反共産主義の砦にする」旨に転換した。これにより日本の政官財界に、戦前の支配者層をある程度復帰させる必要性があると判断され、戦中の国家体制を支えた旧支配者層が続々と復帰した。いわゆる「逆コース」である。そしてこの逆コースの中に、東條英機内閣で閣僚(商工大臣)を経験し、満州経営に長く携わり、A級戦犯として訴追されたが結局不起訴になり釈放された岸信介が居た。ここまでは教科書的説明であろう。

 戦後ドイツは徹底的にナチ関係者を追放して、戦後の政界に復帰させることは無かった。しかし戦後日本はドイツと違い、「東アジアにおける反共親米国家の主軸」として復活させるためには、どうしても戦前からの支配階級の復帰が必要であった。戦後日本は民主化したとされるが、実際には政官財に戦前からの旧体制が色濃く残ったのは、ほぼすべてGHQの意向である。

 激しい朝鮮戦争は1953年にソ連首相・スターリンの死去により一応の休戦をみせたが、ソ連は強大であり重工業化に邁進して国力が激増していた。共産陣営の中国、そして北朝鮮は依然として東アジアにおける脅威であるとアメリカには映った。アメリカとしては、東アジアにおける反共の防波堤として、日本、台湾(蒋介石の中華民国・当時は国府と呼んだ)、フィリピン、タイ、南ベトナム、そして韓国に様々な支援を行った。

 戦前から軽工業国だった日本は、「東アジアにおける反共親米国家の主軸」として経済的には最も期待できる主役として復活が期待されたが、反共産主義の精神的・理念的指導国となるには不十分であった。なにせ敗戦により天皇制国家が解体されたし、形式上は新憲法によって信教の自由が保証されたので、特定の宗教団体を外部勢力や国家が支援するのになじまないのだった。

・アメリカの反共戦略と韓国

筆者制作
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 そこでアメリカが極東戦略の一環として、「東アジアにおける反共親米国家の精神的・理念的主軸」として目を付けたのが1960年代の韓国であった。クーデターを経て1963年に朴正熙大統領が正式に政権を握ると、朴政権は強烈な反共主義を鮮明にし、反共親米軍事独裁政権を1979年まで続けることとなった。

 この朴政権の期間中、1968年に韓国と日本でほぼ同時に設立されたのが「国際勝共連合」である。「国際勝共連合」はその名の通り反共産主義を掲げる(勝共運動と自称する)政治団体だが、実質的には旧統一教会の傘下団体である。旧統一教会は、創立者である文鮮明氏が日本の敗戦直後から韓国で活動を始め、1954年、正式にソウル市にて「世界基督教統一神霊協会」(略称:統一教会)を創設した。

 ともあれ「国際勝共連合」が旧統一教会を母体に設立されたのは間違いなく、ここにはアメリカの極東における戦略が見え隠れした。韓国は日本の植民地支配により国家神道を押し付けられた反発があり、神道以外の価値観を受容する素地があった。当然、事実上の国境を共産国家の北朝鮮と隣接している分断国家なので、共産国と海を隔てている台湾、フィリピン、タイとは違い反共主義が広がる説得力がある。また前述の通り朴政権は親米軍事独裁政権であったのでさまざまな外部からの支援がやりやすい環境にあったからである。

 では岸信介と旧統一教会の関係とは何か。「国際勝共連合」が設立された1968年、岸はすでに総理大臣では無かった。岸内閣は1957年~1960年まで約3年半続き、最終的には日米安保条約の改定(いわゆる60年安保)をして総辞職したのち、池田勇人と佐藤栄作の長期政権が続く。しかしながら、「国際勝共連合」が設立されるはるか前から、日本の保守層と旧統一教会の関係はあった。

 敗戦により軍隊を喪失した戦後日本は警察力しか保持できず、そして新憲法により民主警察として刷新されたため、反権力を掲げる共産主義者などの騒擾やデモに対し、有効な物理的抑制力を欠いた。1950年にGHQの意向のもと、警察予備隊が創設され事実上再軍備をし、1952年に保安隊、そして1954年に自衛隊となっても、彼らを国内の騒擾やデモの鎮圧にあたらせるのは、戦中の暗い時代の記憶が生々しく残る当時、”軍隊アレルギー”がことさら強く世論的に不可能であった。

 こうした中、いわゆる左翼勢力、共産主義者らを物理的に抑制する手段として反社会的勢力が介在した。これらの背景に居たのは、児玉誉士夫などに代表される右翼の大物である。そして児玉誉士夫は戦中・戦後を通して保守政界に幅広い人脈を持った。この中の一人に岸信介がいた、という理解で大筋はよろしかろう。岸はA級戦犯ながら不起訴・釈放とされたが、その背景には、「逆コース」があるとされ、アメリカには恩があった。こういった関係から、岸は60年安保の改定反対運動に対し、対抗措置として右翼を用いることを考えた。岸と右翼人脈の接近である。

・国際勝共連合と清和会

筆者制作
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 戦後の右翼はのっけから厳しい環境に置かれた。そもそも軍国主義が敗北したのちの戦後日本で、公然と「愛国」だの「祖国愛」だのを掲げること自体、社会的にマイノリティーであるとされ、蔑視に逢った。

 こういった戦後右翼の中には、前述したように反社会的勢力として生きる道を選んだ人々が居たことは事実であった。なぜなら彼らは差別されており、表社会での活動が制限されていたからである。彼らにとってみれば、日本の植民地支配の被害に遭った韓国発祥の旧統一教会やそれに関連する政治勢力に、信者でなくとも親近感を抱くのは道理であろう。もちろん、そういった事情の枠外で、岸信介は戦後右翼や旧統一教会をうまく利用した側面があったことは否めなかった。こうして、旧統一教会・戦後保守・岸信介、ないしは国際勝共連合・戦後右翼・保守政治家の一部が接続していった。

 さて1968年に国際勝共連合が設立された当時、日本の政権は自民党の佐藤栄作内閣であった。この年、日本のGNPは西ドイツを抜いて世界第二位になり、堂々「経済大国」の地位を確立させた。岸は反共親米色が強く、岸の次は宏池会の始祖・池田勇人になり容共色があった。その次の佐藤内閣も、岸とは派閥の違う佐藤派(当時)の領袖で、容共色があり、基本的にはこの佐藤内閣下で共産国・中国との国交回復交渉が行われる。

 私が何を言いたいかというと、国際勝共連合が如何に反共親米の色濃い政治団体で、岸を筆頭とする日本の保守政治家とパイプがあったとしても、自民党の全てにいきわたっていたわけではない、ということだ。

 戦後の自民党史を俯瞰すると、吉田学校と呼ばれた吉田茂を母体とする政治勢力、これがのちの宏池会や経世会系になるわけだが、これを「保守本流」と呼び、自民党の屋台骨であった。一方、反吉田茂を鮮明にした政治勢力、これがのちの清和会になるわけだが、これを「保守傍流」と呼び、この源流は鳩山一郎、岸信介などである。

 自民党とはつまり、概観すると吉田系の宏池会と経世会系、反吉田系(鳩山系)の清和会というふたつ(或いは三つ)の巨大勢力から成立している。なぜか。そもそも自民党はこの異なる勢力が合併して成立したのだから当たり前である。この二者の合併を「保守合流」と呼ぶ。政策的な違いは、吉田系が「ハト派的、護憲的、親米、アジア外交、大きな政府」、鳩山系が「タカ派的、改憲的、親米、反共、小さな政府」である。本当はもっと細かいが、物凄く大きくまとめるとこうなる。そして国際勝共連合が影響を持ったのは後者の鳩山系、つまりは岸と、のちの清和会である。なぜなら清和会は反共親米タカ派であり、国際勝共連合もまた反共親米タカ派だからである。そして最終的にはアメリカの極東戦略、つまり反ソ政策(反共)に影響されていたのである。

 佐藤内閣の次は、田中角栄の時代になった。田中は独自の派閥(田中派、のちの経世会系に繋がる)を作り、1970年代はいわゆる「三角大福」の時代の到来だった。つまり三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫である。時系列的には、田中→三木→福田→大平の四内閣が交代していき、1980年まで続く。この中で清和会の直接の始祖となったのは福田だが、約2年で終わっている。国際勝共連合は基本的にこの清和会に影響を持ったが、福田の時代は前述の通り長くない。

・ソ連崩壊と国際勝共連合

 1980年代に入るや大平首相が急逝し、鈴木善幸を経て中曽根内閣が約5年半の長期政権を担った。中曽根は「タカ派的、改憲的、親米、反共、小さな政府」とその政策が清和会と酷似していたが、派閥的には清和会ではなく独自の中曽根派であった。また親米は親米でもより民族色の濃い自主独立路線を秘めていた。

 中曽根の後、1980年代後半から1990年代前半にかけて、竹下→宇野→海部→宮澤と続き、清和会内閣は誕生しないまま細川連立政権で自民党は下野する。羽田を経た短い非自民連立政権の後、自社連立の村山があり、橋本→小渕と90年代後半から自民党は経世会系(平成研)の天下になる。私が何を言いたいのかというと、つまり国際勝共連合の出る幕はあまりなかったのである。

 状況が変わったのは小渕が急逝して清和会の森内閣が誕生した2000年4月からだ。森が不人気で1年で退陣した後、同じ清和会の小泉内閣が5年半、続いて第一次安倍→福田康夫と清和会内閣が連続し、宏池会系の麻生内閣を経て自民党が下野、民主党内閣が3年半続き、2012年末から2020年末まで清和会の第二次安倍政権、そして無派閥の菅、宏池会の岸田(現内閣)と現在に至る。

 では伝統的に清和会に影響を持った国際勝共連合は、2000年の森内閣から復権したのかというと、実際は違っている。なぜなら既にその当時、国際勝共連合の主敵であったソビエト連邦が地図から消えて久しかったからである。「反共」を掲げても、共産国の親玉がすでにいなかったのである。またこの間、国際勝共連合の母体である旧統一教会も、1980年代末から1990年代初頭にかけて、いわゆる「霊感商法」や、強引な信者獲得手法がマスメディアに大きく取り上げられ社会問題となり、世論の風当たりが強く、影響力は衰微していた。

 このような状況の中、第二次安倍政権が2012年末からスタートするわけだが、結論から言って国際勝共連合も、その母体である旧統一教会も、すっかり影響力を失っていた。だから冒頭の問いに戻ると、旧統一教会を日本に決定的に招いたのが岸かどうかは解釈が分かれるが、まったく間違いということもなく、関係があったことは事実で、また岸の孫は安倍元総理であるのは自明である。安倍元総理が旧統一教会系の団体に祝電を送ったり、同じくビデオメッセージを送っていたことは事実である。それは祖父の岸からの関係性を重視したものであることは類推できるが、2012年の時点での、国際勝共連合や旧統一教会が、第二次安倍政権に決定的な政治的影響(集票力等)を与えた、とは言い難い。ただし関係があったことは事実だ。

・嫌韓の構造的矛盾、新種としてのネット保守、清和会

日韓関係のイメージ
日韓関係のイメージ提供:イメージマート

 現在的な観点からもう一度、国際勝共連合およびその母体の旧統一教会と、日本の保守派の関係性を紐解いていこう。21世紀、とりわけ2002年の日韓ワールドカップから出現したいわゆる「ネット保守」は、強い嫌韓感情を持つので、韓国を母体とした国際勝共連合および旧統一教会が、清和会と関係があったという事実を想像することが極めて難しい。

 しかしそれは彼らが無知なだけで、ネット保守が強く支持する清和会こそが、韓国と関係があり、逆にネット保守が反日的・売国的などと批判してきた、宏池会や経世会系の方が、よほど韓国との関係性は薄いのである。この逆転現象は、端的に戦後の自民党史に対する無知から来るものだ。さらに言えば、日本共産党の方が、伝統的に韓国の軍事政権を「アメリカ帝国主義の手先」と見做して批判してきたので、嫌韓という一種類だけで見れば、日本共産党こそがかつてよほど嫌韓政党だったが、こういった歴史的事実は無視されている。

 概ね20世紀末まで、熱心な保守活動を行ってきた古参の人々は、この問題に極めて敏感だ。清和会と国際勝共連合の関係は公然の事実だからである。清和会に属する保守政治家や古参の保守活動家が、国際勝共連合を通じて韓国の保守派と交流があり、反共をスローガンに、日韓の保守派をブリッジしていたことなど、言われなくとも常識だからである。そして現在でも活躍する高齢の保守系論客の人々の中には、冷戦時代に国際勝共連合と関係があった人が多く含まれていることもまた常識である。ただし勿論それは政治的な関係性だけで、彼らが旧統一教会の信者だったわけではない。

 この戦後保守における「常識」を知らないネット保守は、「自民党はなぜ韓国の竹島不法占拠に強い態度を取らないのか」という良く分からないことを言う。そもそも取れるはずがない。日本のタカ派や保守派が、国際勝共連合と関係がある以上、相手の母国に「竹島を返せ」と強く迫ることができる訳が無い。一方、国際勝共連合とは関係が薄い宏池会や経世会系は、日本による植民地支配という罪悪感が強く、また世論も永らくそうであったので、これも強く迫ることができない。総じて自民党が韓国に対し強硬に出る、ということ自体が構造的に無理筋な話なのである。よって「しがらみ」の薄い非自民のタカ派が希求されたわけだが、それが一時期の民主社会党(民社党)であった。古参の保守派には、旧民社党の流れをくむ人々は多い。

 現在の国際勝共連合と清和会との関係はどうだろうか。すでに述べた通り、ソ連崩壊と日本国内でのイメージ低下によって、その影響力は衰微し、往時の勢いはなく「自民党、とくに清和会を支持する団体のひとつ」にまで後退しているのが事実である。ただし、全く関係がないのかと言えばそうではない。社交辞令もしくはそれ以上の付き合いはあるというのが実態であろう。

 一方、政治家ではない日本の保守界隈は、2002年からの「ネット保守」の強烈な嫌韓姿勢により、かつて国際勝共連合を通じて韓国と交流があった事実をひた隠しにする人々が大半である。大学生時代に渡韓し、韓国の保守派と大いに歓談しただけでなく、恋愛関係にまで発展したという古参の保守言論人を、私は何人も知っているが、彼らはネット上で絶対にその経験を口外しない。彼らも馬鹿ではないので、国際勝共連合と日本の保守派の関係をもはや「全く知らない」という人々には、日本の保守派こそ「反共」というスローガンのもと韓国と関係が深かった、という構造自体をいくら説明しても理解されないと諒解しているからだ。

 逆にいえば、「ストレート」に、国際勝共連合に何の忖度もなく、嫌韓を言う21世紀以降の保守の方が、戦後保守の系譜の中では「新種」であり「亜流」なのである。このような歴史的構造を理解していないと、山上容疑者のいう「家庭を壊した団体を日本に招いたのが岸氏(岸信介)で、その孫の安倍氏を狙った」という世界観が、何を指しているのか良く分からないのではないか。むろん当然どのような世界観であれ、今回の銃撃は言語道断であり、絶対に許されるべきではない。私は山上容疑者の世界観にも「一理ある」などと言っているのではない。山上容疑者の世界観の構造とはこうなっている、と説明しているだけだ。

 旧統一教会を岸が日本に招いた、という解釈が妥当かどうかは分かれるところである。が、岸が前述のような理由で旧統一教会と関係があったことは事実である。また清和会が反共というスローガンのもと、国際勝共連合と関係があったことは事実で、一時期「清和会のプリンス」とまで言われた安倍元総理が、岸の孫であるという系譜もあり、旧統一教会と関係があったことは事実である。有るものを無い、というのは歴史の歪曲であり事実ではない。だが実際の影響力の濃淡でいうと、もはや彼らは「淡」である、と評価するよりほかない。しかし山上容疑者には国際勝共連合や旧統一教会が、そうは映らなかった可能性はある。

 また安倍元総理銃撃事件の直後、マスメディアが総じて山上容疑者の供述を「特定の宗教団体」とか「特定の団体」とぼかすように報じたのは、政権への忖度が働いたのではないかと言われたが、前述したように国際勝共連合・旧統一教会との関係があったのは、清和会であり、岸田政権は宏池会内閣なので、宏池会は国際勝共連合と関係が薄いというよりほぼ絶無である。忖度する理由はない。世界的な重大事件なので、山上容疑者の供述の裏どりを慎重に行っていたのが主要因の様だ。

 すでに述べたように過去、マスメディアはこぞって旧統一教会の問題を報道したので、妙なタブーがある訳ではない。旧統一教会の人脈が日本の中枢に食い込んでいる、という訳でもない。旧統一教会は信者数からすれば数万程度、とも試算されている。これより規模の大きな新興宗教は日本に幾らでもある。恐らく「日本会議」を構成する宗教団体の方が、余程規模として大きいと思われる。旧統一教会に何かを動かすような力はない。ただ教団名を言うと、「クレームが来るのではないか」と恐れていただけではないだろうか。少数のクレームを極端に恐れる風潮は確かにある。事実としては既に、旧統一教会の名前はマスメディアで大きく報道されている。

・A君と旧統一教会

1982年における旧統一教会合同結婚式
1982年における旧統一教会合同結婚式写真:Fujifotos/アフロ

 最後に、私には幼稚園時代からの親友Aがいた。彼と私は家が近かったので、幼稚園・小学校と奇遇なことに同じ学校の同じクラスだった。ただし中学に進学すると、学区の境界に居た私はAとは違う中学に進学することになる。しかし高校でまたAと同じ学校に進学し、高校1年で同じクラスになるという、異様なほど出来過ぎている偶然に恵まれた。

 Aが母親の影響で旧統一教会の信仰に傾斜したのは、中学1年の時であった。西暦でいえば1995年である。中学は違えど、頻繁にAの家に遊びに行っていた私は、やがて猛烈にAとその母親から旧統一教会の勧誘を受けた。私は根が猜疑心の塊にできているし、この時代からレオ・ヒューバーマンの『社会主義入門』(岩波新書)を読み、唯物史観の影響を受け始めていたので、「Aとその母親のいうことは信用できない」と思いつつ、一方で怖いもの見たさで勧誘に乗じるフリをして、Aから勧められて半ば強引に貸し与えられた旧統一教会の本を読むことになった。

 基督教~と謳っている割に、その教義はキリスト教と韓国伝統の儒教、それからシャーマニズムの混交のように思えた。日本については、文鮮明氏により「植民地支配の辛い経験はありますが、日本の人たちを恨んでいるわけではありません。これからは韓日友好の時代が~」みたいな旨、日本語に訳して書いてあった。

 Aは高校に入るとますます旧統一教会に傾斜するようになり、「韓国は聖地」と連呼するようになった。自宅のリビングには文鮮明夫妻のカラー写真が何枚もパネルにして堂々と飾ってあった。Aの自宅を私とともに訪問したBが、「これA君のおじいちゃんとおばあちゃん?」と聞くと、Aは俯いて「あーん…」と不明瞭に発声して、明確には答えなかった。

 Aは中堅進学校であった私の高校レベルで考えるとだが、秀才の部類だった。高校1年生の段階でAは北海道大学理系学部の模試合否判定で「A判定」を取っていたからである。この間、Aは学級会で「宇宙の真理」等について独自のプレゼンテーションを行おうとするなど奇妙な行動が目立ち始めた。私はこのプレゼンテーションを、「背後に旧統一教会の教義が存在する」として阻止しようとしたが、クラス担任だったC教諭が宗教に免疫のない人で私の抗議にもかかわらず、すんなり許可された。結局Aは教壇に立って「宇宙の真理」を熱弁した。直後、私は「これは特定宗教のプロパガンダである」とクラス中に吹聴して回り、Aの面子を潰してしまった。Aとの友人関係はすでに破綻していた。

 高校2年で私とAは別クラスになった。高2になるとAの成績はがた落ちしたらしい。それと旧統一教会への信仰との相関は不明だが、Aの学業は不振となり、回復しないまま高校3年の受験期を迎えた。Aは北海道大学を受けても最早自滅するだけと悟ったのか、札幌市内の私立大学を受験して合格し、そこへ進学したらしい。完全にAと絶縁していた私は、風の噂でこのようなことを聞いたのである。

 私は京都の私立大学に進学した。それから1年ほどたって、地元の級友からAが北海道大学で旧統一教会の布教活動をしているとの情報が入った。それは北海道大学に現役合格して同大に進学した友人のD君からのメールで、それによればAは身分素性を隠し、北海道大学構内でダミーサークルを作って布教しているという。Aの本名で検索すると、すぐに当該のサークルがヒットした。障害児童と大学生や社会人がサッカーをして交流する、という趣旨のサークルの会長にAは就任していた。だがAは北大生ではないので、D君はすぐ違和感に気が付いたという。D君はAに声をかけようとしたが、意図的に目線をそらされたという。

 この後、Aの動静は永らく不明であったが、8年ぐらい前に私の実家から私宛にAからの郵便物の転送が行われた。それはAが結婚したという報告と、是非読んで欲しいという趣旨で、文鮮明氏の著書『平和を愛する世界人として―文鮮明自叙伝』が同封されていたのである。このAからの郵便物を転送したのは私の母親だった。私はすぐさま電話で、「Aとは縁を切っている。このようなプロパガンダ的書籍が同封されていることを知っているのに、なぜわざわざ転送してきたのか」と抗議した。私の母親は「そんなこと言わないで~。A君はあなたの幼稚園時代からの親友じゃないの~。邪険にしないで~」などと無批判に擁護していた。

 私はそののち、この実の母親(父親とも)と絶縁することになるのだが、よく考えれば、私の母にしても、旧統一教会の信者ではないものの、或る仏教系新宗教の熱心な信者なのであった。私は旧統一教会の事案が報道されるたび、このAのことを思い出すのである。(了)

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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