僕はW杯に行きたかった……佐藤寿人が振り返る4人の代表監督

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回は佐藤寿人さんにご登場いただきました。ジェフ市原でデビュー以降、さまざまなチームで常に得点を獲り続けてきた一方で、日本代表では常に「ジョーカー」という立場でW杯日本代表には選ばれなかったことについて、正直な思いを語っていただきました。また、移籍によって経験した日本各地のグルメエピソードについてもお話しいただきました。 (亀戸のグルメランチ

僕はW杯に行きたかった……佐藤寿人が振り返る4人の代表監督

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2000年にプロデビューした佐藤寿人は

市原、C大阪、仙台、広島、名古屋、そして再び千葉と

多くのチームで印象的なゴールを残してきた

 

記憶に留まる得点だけではない

J1通算ゴール数は歴代2位という高成績

いつも前線の頼れる選手になる

 

だが日本代表に招集されても

なかなかチャンスは巡ってこなかった

常に「ジョーカー」という立場でもあった

 

そんな佐藤に苦しかったとき

日本代表での後悔

そして愛するものについて語ってもらった

 

「サッカー人生は終わったかな」と思った瞬間

僕は苦しいって思うことってあんまりないんですよ。辛いってケガとか病気のときとかには思いますけど。

 

ケガで1番辛かったのは、広島にいたときの2010年のヤマザキナビスコカップですかね。準々決勝で肩にケガして、決勝の前に復帰できたんですけど、決勝ではピッチに立てなくて。僕が広島に行ってから、まだリーグタイトルを獲ってない状況だったんで、どうしても優勝したかったんですけど、準優勝だったんです。

 

病気で言えば、2002年にジェフからセレッソに出場機会を求めて期限付移籍で行ったんですけど、そのときシーズンのスタートでちょっと出遅れて。

 

最初の症状はいきなり出たんですよ。当時セレッソは練習前にグランドに出てきた選手で、監督が「集まれ」っていうまでボール回しをしてたんですけど、そのボール回しでさえ動けない。

 

それで練習始まるじゃないですか。始まったのに自分は走れない。走りたくても走れなくて。膝に力が入らないという感じですかね。前に行けない。歩くことはできるんですけど、走りたくても前に行かない。そんなの初めてで自分でも驚いて。周りが「え? どうしたの?」ってなるじゃないですか。「ちょっと力が入らないというか走れないんですよ」って。

 

日常生活でも、食事のときにお茶碗を持とうと思っても重くて持てない。だからお茶碗を置いて食べるしかない。握力も全然なくなってて、10キロぐらいになっちゃって。もう全然どうすればいいかわからない。

 

体をチェックしても何もわからないんですよ。CTとかMRIとかいろいろ撮っても悪いところはない。それで大きな病院で神経のチェックをやったんです。そうしたら、ギラン・バレー症候群の初期症状だって言われて。自分で自分の神経を攻撃してるということでした。

 

それはわかったんですけど、でも回復の方法とかそういうのも特別ないと言われて。どういうふうにリハビリをしたらゴールがあるというのがわからない。そんな状況でずっとやらなきゃいけなかったので、気持ちは難しかったですね。

 

その時は正直、「サッカー人生は終わったかな」と思いましたね。それまでの3年間で現役生活が終わるってことも全然ありました。症状が回復しなければプレーできなかったから。

 

原因っていろいろあるらしいんですけどね。考えられることはいくつかあったんです。たとえば症状が出る前、アスレチックトレーニングのときにすごい雨が降ってた日があって。それで体調を崩して風邪引いちゃって高熱出して、それで体が間違って自分の神経を攻撃しちゃったんじゃないかって。

 

あとは生の食べ物がよくないっていう説もあるんですけど、これが本当の原因というのはわからなくて。だからそのあと、いろんなことに気を付けるようになりました。風邪とか、そういうのも気を付けてます。ちょっとしたことでそうなるんだから、怖いですよね。

 

ジェフからレンタルで行っていたので、ジェフの人がみんな、兄の勇人もすごく心配してくれてました。夏前ぐらいにはプレーできるようになったんですけど、そのときでも握力って完璧には戻ってなかったですね。

 

そのころは普段の生活の中でも常に力を入れるような、神経のスイッチを入れるような感覚をずっと持ってやってました。ただ何とかシーズン終盤には試合もちょっと出られて、天皇杯でアピールして仙台から話がもらえたんです。

 

ケガしてないときは、広島と仙台で2度降格した経験が苦しかったですね。仙台時代は本当に若手というか、初めてレギュラー取った2003年に降格して。広島では日本代表にも選ばれて、ある程度チームの、言わばエースというような立場でプレーしてる中で2007年に降格を経験してるので。

 

仙台と広島のときでは降格するときの状況っていろいろ違いがあったんですけど、両方共通して言えることもあって。それは、自分が主力として試合に出てた、ピッチに立ち続けていたということで。

 

ストライカーとして自分が点を取っていれば、それで勝点をいくつか上積みできていれば、残留してた。その意味では責任があるので。極論をいえば、僕がもっと点を取っていれば残れてたという思いがあって。仙台のときは9得点、広島では12得点なんですけど、それが仙台だったら10点、11点取れていれば、もしかしたら残れたかもしれないし。

 

どのポジション、GKとかDFにしても失点を防いでいたら勝てた、それで残留できていたと感じるかもしれないですけど、FWはそれ以上に、あの場面でゴールを取れていれば、この試合勝てていたかもしれないというのがあるので。そう思うと1番ダイレクトに責任を感じるポジションではありますから。

 

そういう意味では、ブーイングとかそういうのも、チャンスが何もない試合のときは正直受け入れられない部分はありますけど、でもチャンスを決められないときなんかは全部自分に向けてのブーイングだと思ってるので。その2回の降格というのは、自分で何とか残留に導けたんじゃないかって思いがあったので、降格したら移籍しようという発想は全くなかったですね。

 

しかも仙台への期限付移籍は、結婚したタイミングでもあったんですよ。「ここで結果を残さなければプロとして終わるな」っていう。高卒でプロになってだいたい3年から5年ぐらいで結果が出なければ契約解除という流れみたいなのはその当時もあって。

 

仙台に行ったのはプロ4年目だったから、ここで結果を出さなければ千葉に戻ることができないっていう思いでした。それでピッチに立てて得点も取れて、でもチームとしては降格してしまって。非常に悔しい1年になってしまったので。

 

で、降格した以上は自分がもう1回仙台をJ1にあげるという思いでやっていたんです。それは広島の時代もそうでした。降格した責任は、昇格することでしか果たせないと思っているので。

 

ただ、仙台では自分は昇格することができずに離れることになってしまって。それは非常に心苦しいところがあったんですけど、ただ当時のクラブのヴィジョンと僕のキャリアとしての考え方にはズレがあったんですよ。

 

当時の仙台は監督が毎年交代していた時期でもありましたし、3年ぐらいかけてチームを立て直してからJ1を目指すってことを言ってたんです。僕はそんなに何年もJ2でやりたくないというのがあって。もし1年でJ1に復帰するという方針があれば仙台に残るという気持ちはありましたけど、そこにちょっとずれがあったんで。

 

ただ、そういういろんな思いをしたときはありますけど、それは苦しいというより、「もっと頑張ろう」って思えるときだったんで。サッカーできるんだし、サッカーで解決するために向き合わなきゃいけない1つのことだったと思ってます。あんまり苦しいとか辛いなとか、そんなのってホント、なかったですね。

 

FWとしてやりやすかったのはジーコ監督

日本代表に関して言えば、2006年のジーコ監督のときから2012年のアルベルト・ザッケローニ監督のときまで呼んでいただいたことがあるんですけど、うまくやれなかったかなと。

 

その当時のいろいろタイミングとか代表の戦い方があったり、監督が違えばサッカーが違うのは当たり前のことで、でも僕はどちらかというと、そこにうまく適応できなかったかなって。

 

僕はボックス(ペナルティエリア)で勝負する、点を取るというのが1番のスタイルでやって来てたんですけど、もう少し器用で、もう少しいろんなポジションができれば、長く代表でプレーできていたのかなとも思うんです。

 

でもどの監督も共通して僕をジョーカーとして途中から投入するという役割を与えてくれていたので、その中でももう少し何とかしたかったという思いもありました。

 

イビチャ・オシム監督のときも右のウイングとかに配置されたりしたんですよ。真ん中で使ってくれないのかって思いましたけど、でもオシムさんはそのポジションが僕に対するすごいメッセージとしてあって。

 

いかにサイドからゴール前に入っていくかとか、サイドにポジションを取ってもサイドだけのプレーは求められてなくて。今思えばそこはもう少し自分がうまくできたんじゃないかなと。

 

スタートの位置は外でしたけど、そこから真ん中に出たり入ったりとか、ときに中盤に降りてもう少しビルドアップに関わってというプレーもスムーズにできてたら、もっと違っていたかなって。オシムさんから求められてるものを理解してスイッチを入れ替えられればよかったと思うんです。

 

広島ではボックスを仕事場としてやっていたし、ゴール前で仕事をするのが1番重要だったので、そこをやりたいという思いもありました。でも代表に行ったら監督の意志をもう少し汲み取れないといけなかったんですよ。

 

わかりやすかったのはジーコ監督でした。ジーコさんはFWの選手に「点を取る」ということを求めてたので、いかにゴール前でボールを引き出すかというのしか言われなかったですね。いろんな代表監督の下でやりましたけど、1番FWがやりやすいというか、自由にできたのはジーコさんだったのかなと。

 

2トップに代えて控えの2トップを入れる、スコアが動かなかったらベンチの2人にそのまま入れ替えるというもありましたし。指示は「点取ってこい」だけで。

 

それって、「お前たちの考えてること、今までやって来てることを信頼してるぞ」という考えが根底としてあると思うんですよ。「お前たちはプロなんだから監督のオレが細かいことは言わない。お前たちを使うというのは点を取れということだからな」って。

 

出番を待つ間って、点を取るためにベンチからずっと試合を見てるわけじゃないですか。どういうところにスキやウイークポイントがあるとか。それで後半途中で呼ばれて「点を取ってこい」と言われるから、すごいゲームに入りやすかったですね。

 

岡田武史監督の指示は、守備の部分とか前線の選手でもタスクが多いと思いましたけど、それは昔に比べてサッカーが変わってるからというもあるんです。岡田さんには、「世界」というのをすごく意識させてもらいましたし。

 

あれほどいろんな考えを言葉にした代表監督はいないと思います。特に日本人はフィジカル的に劣ると言われてる中で、そのフィジカルをもっと上げていこうということに正面から向かい合って。

 

岡田さんはフィジカルに対して目を背けることなく、ワールドカップまでの残りの期間で、どこまでそのギャップを埋められるか、積み重ねられるかというのを、1人ひとりのデータを取ってやっていったんです。

 

選手は代表での活動期間よりもクラブで過ごす時間が長いので、クラブに帰ってどれだけ向上できるかというので、課題を持ち帰らせて。それでまた代表で集まったときに数値を測定して確かめるという、そういうことをやってました。

 

そういう部分を意識することで「世界」が見えるというか。もう数センチ、ボールに寄せることで変わっていく、数センチ違うところにボールを置くだけで次のプレーが変わっていくということを意識させてくれたんですよ。最後までチームに生き残れればよかったんですけど、最後の最後でワールドカップのメンバーから外れてしまったので。

 

2012年、優勝して得点王とMVPを取ることになった年にアルベルト・ザッケローニ監督が1回呼んでくれましたけど、正直に言うと、あのころにもっと呼んでもらえてたら、もう少し何かできたんじゃないかという思いはありました。ヨーロッパの遠征に追加招集で呼ばれたんですけど、あのときは前線にいろいろ求めるということじゃなかったし、ワールドカップも近かったから。

 

でもまぁいろんな部分を含めて、監督には選ぶという権利があるので、選手はそれを決断させる何かを持っていなければいけないのかなって。もちろん、何か1つを磨くというのは大事ですけどね。でも、その1つだけじゃないところも高めなければいけないというもあると思うので。

 

代表チームって23人しかいなくて、フィールドプレーヤーはだいたい20人で、半分はベンチで。そして選手交代は3人しかできないのだから、1つの交代カードでも役割を2つ変化ができたり、ピッチの中でのポジションの変更で戦術的な変化を加えられるというところは必要だった思います。

 

その1枚に僕はなりきれなかったかなって。クラブでの役割と代表での役割と、うまく変換できていれば代表で長く生き残れたのかもしれない。ずっと代表で長く出続けられる選手ってスペシャルじゃないといけないと思いますけど、役割がジョーカーだったり、ベンチスタートのときって、これだけっていうスペシャリストだと使いにくいのかなって思いました。

 

だからやっぱり足りなかったんですよ。もっと何かしなければいけなくて。代表というのは求められるところが高くなっていくので。

 

ワールドカップ、行きたかったですね。やっぱり同世代とかみんな頑張ってるの見てましたから。特に2010年なんかは同世代が1番多かったですし、途中まで苦しんでいる姿を間近に見ていたので、一緒にやりたかったと思いましたね。

 

まぁでも、いろんな代表監督の下でやれた、呼んでもらえたということは自分がやって来たことへの証明でもあるかなと。そう今は思ってます。

 

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カープファンを自認する中で異例のドラゴンズ始球式

選手生活が1番長かったのは広島ですね。12年でしたから。広島の人と親交もやっぱり続いています。

 

この前はちょっと広島に行ったときに、カープの選手と食事に行ったりとか会ったりというのもありましたし、そういう意味でも広島の人とのつながりは変わらずあるんです。

 

それに僕、カープファンなんですよ。一昨年ですかね、名古屋にいたとき、ドラゴンズから始球式の話をいただいて。相手がカープでしたけど、でもドラゴンズの試合なので、ドラゴンズのユニフォームに背番号11と僕の名前を入れたユニフォームを着るという話だったんです。

 

それで僕は「ちょっとそれはいくら何でもできないです」って。ずっとカープファンというのを公言してるので、ドラゴンズのユニフォームを着るというのはやっぱりできないじゃないですか。

 

そうしたらドラゴンズが配慮してくれて、グランパスのユニフォームを着て始球式やらせてもらえたんですよ。ドラゴンズもすごい配慮してくれました。そこは本当にありがたかったんですね。

 

ホント、たまたまなんですけど、昔、広島在籍時代にズムスタ(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)でも始球式をやったことがあって、その相手がドラゴンズだったんです。そのあと自分が名古屋に移籍するってまったく考えてなかったですし、ナゴヤドームでカープが相手のときの始球式に呼んでもらえるというのも、すごい巡り合わせだと思ってました。

 

今は千葉にいるんでロッテが身近な球団ですけど、もし始球式って話があったときには、ジェフのユニフォームを着てやらせてもらえればと思ってます。できれば兄弟で呼んでもらって、僕がキャッチャーやって、勇人がピッチャーとかだったらいいんじゃないかなって。

 

でも勇人は昔からあんまり野球に興味がなかったんで。僕は結構好きで神宮にヤクルトの試合見に行ったりしてましたけど。お兄ちゃんはあんまり野球見てなかったですね。今もあんまり興味ないと思います。僕はプロ野球って、カープどうなったかとか携帯で絶対チェックします。

 

だいたいうちは父が野球をやってたんですよ。ただ、双子なんで、野球をやるとしたらグローブが2つでバットなんかも用意しなきゃいけないじゃないですか。でもサッカーだったらボール1個あれば2人で遊べるし。あとはやっぱり野球だったらグランドとか、そういうところも必要だと思うんで。それでうちはサッカーだったのかなって。

 

父は僕たちがジェフのジュニアユースに入ったら、埼玉県春日部市の飲食店を畳んで千葉に引っ越してくれたんですよ。今、自分にも子供ができて、子供の夢とか進路のために自分の仕事や住まいのベースを変えるって、考えられないですよ。それを自分の両親はしてくれたということを考えると、相当すごいというか。

 

例えば子供が野球をやっていてカープに入りたいという話になったら、家族でサッカー辞めて広島に引っ越すかというと……それは……寮に入ってって言います(笑)。僕はまだ選手だから。選手じゃなくなったらそこはサポートしに行きますよ。……両親は現役で店やってたんですけどね。そう考えると本当にすごいですね。

 

両親は引っ越した後、すごい苦労してたんです。それを自分は見てて。当時はちょっと景気が悪くなってきた時期で、いろいろ仕事を代わったり転職したりするのが難しかった時期だと思うんです。子供心にそういうのは何となくわかってました。

 

自営でやってて、常連さんが来てくれてコミュニティができてたものを、1回そこから外に出て、また別の社会の中で働くってのは難しかったんだろうと思います。当時はそこまではわからなかったですけど、自分たちが大人になってみて、本当にすごい決断をしてくれたんだと感じましたし、本当にそういう意味では、親孝行し続けていかないと足りないですね。

 

サッカー選手も転勤が多いんですけどね。家族も引っ越しますし。だからサッカー選手の家族も大変かと思います。まさに僕の家族なんかそうですから。長男は高校生で、今、大阪にサッカーで行ってるんですけど、次男が中学校1年生で、小学校4年生までは広島にいて、5年、6年は名古屋の小学校に転校という形になったんです。でも名古屋ですごくたくさん友だちができたんで、本人は名古屋に残って中学に進学したいって言ってきたんですよ。

 

でも僕は千葉でプレーするし、妻は僕をサポートしたいと言ってくれたので、犠牲になったのは次男っていうところですね。次男の思いは汲んであげられなかったんで。かわいそうだという思いもありながら、でも、それって仕方がないですね。

 

難しいですけど、僕たちの子供として生まれてきた宿命かなって。逆に、だからこそいい思いをしてるときもあると思うんですよ。いろんな選手に会えたりとかサッカーを見られたりとか。それはいい部分じゃないですか。だから転校しなければいけないというのはいい部分じゃないですけど、それも受け入れてほしいと思ってます。

 

もちろん僕が単身赴任で行くという形もありますけど、それは広島から名古屋に行くときにできなかったので。1人で行くというのが、意外と大変だったなというか、やっぱりその、ストレスに感じましたね。

 

最初は1人暮らしにちょっと憧れがあったんです(笑)。僕、21歳で結婚してて、1人暮らししたことがほとんどなかったんで。1人暮らしはジェフの寮だけで、寮生活を終わって出たときは妻と一緒に暮らしてたから。1人で何でもかんでもやらなきゃいけないというのは実際初めてだったんですよ。

 

最初は「今日は何食べようかな」って楽しかったんですけどね。でもすぐにそれが楽しみからストレスに変わって。サッカー選手にとって食事って大事じゃないですか。それが1人だと「今日何を食べようか」って考えなきゃいけない。

 

食べるものは何でもいいとかだったらいいんですけどね。でもやっぱりアスリートだからちゃんと食べなきゃいけないし、いろいろバランス考えなきゃいけないし、そのときにあったものをしっかり食べなきゃいけない。それを考えるのがすごいキツかったです。

 

家に帰ると誰もいないし、もちろん朝も起きて、朝ご飯自分で準備して食べて、自分で洗い物して、出ていくわけじゃないですか。帰ってきたら電気付けて、とか。今まで家族がやってくれてたことを全部自分でやらなきゃいけない。

 

それに、休みになったら新幹線に乗って名古屋から広島に帰るっていうのを毎週やってたので、そうすると肉体的にもキツいですし、24時間家族といられずまた名古屋に戻るみたいな感じでしたから。ホント、サッカーじゃなくて、日常、普段の生活する辛さを味わいました。

 

それで2カ月ぐらいで、ちょっとストレスだなと思って、妻にそう言ったら、妻も父親が側にいないと子供が言うことを聞かないって。じゃあやっぱり一緒に暮らそうかって、単身赴任を最初の2カ月で断念して家族で名古屋に住むってことになったんですけど。そのとき世のお父さん方で単身赴任してる方ってすごいなって思いました。

 

サッカー選手って家を持てないとも言いますもんね。どこに移籍するかわからないから。それなのに広島に家を持ってるって、理由があるんですよ。

 

僕の出身は埼玉ですけど実家は千葉で、妻も千葉の人間なんです。広島に親戚がいるわけでもないですし。でも広島で選手として過ごして自分はいろんなものを与えてもらったと思ってますし、逆に広島に何か残さなければいけないというのもありましたから。それにやっぱり山があって、田舎なので空気が綺麗ですから。

 

千葉はまだ山があるんでいいんですよ。ただ、東京に行ったら喧噪としてて、人をよけて歩かなければいけないというのがあって、それって、僕にとって1番のストレスなんですよ。広島にいたときもそうで、1番大きな「本通り」という通りは歩けなくて。

 

向こうから歩いてくる人をよけるというのがすごいストレスで、目的地まで1番近い混んでる道より、遠回りしても人の少ない裏道を歩いて行ってたんです。ピッチの上では相手をよけるのって得意ですけど(笑)、ホント、ダメなんです。人混みとかダメで。

 

だから引退して、歳を取ったら広島に行って、カープの試合を見ながら暮らすのが最高です。ズムスタ行ってビール飲みながら。サッカーのことやりなさいよって感じですね(笑)。

 

「広島焼き」ではなく「広島風お好み焼き」

僕はホント、おいしい店の情報をサッカー界で1番知りたがってるんじゃないかと思ってます。だからいつも携帯でいろいろ調べてますし、それこそ「ぐるなび」で予約をすることもありますし。

 

予約で1番困るのは、僕、名字が佐藤なので、予約の名前で「佐藤」というと、「下の名前もお願いします」って言われるんですよ。そうするとサッカー知ってる人とかだと、もう事前に僕が行くの、わかっちゃうというか。広島とかだったら特にそうでしたし。

 

それに「佐藤」って電話だと聞き取りづらいらしくて、「加藤さん?」って言われたり。それを「いやいや、さ行の佐藤です」って返すのがこれまたストレスで。そういう意味では「ぐるなび」とかサイトとかで予約できるときに、電話じゃなくて、オンラインで予約できるのが1番楽です。

 

行ったことがない場所、これまで自分が経験してない場所だったりすると、飲食店の情報が自分にまったくないじゃないですか。それを調べるのは楽しみなんです。それはストレスじゃない(笑)。

 

どれだけ自分好みの店を調べられるかって楽しいですし、結構、お店の情報は頭の中に入ってるんです。名古屋に移籍したときも楢崎正剛さんにいい店を教えてもらう前に、僕はナラ(楢崎)さんの行きつけの店に行っちゃう、みたいな。店の人から「楢崎さんの紹介ですか?」って言われたんですけど、「自分で調べて来たんです」って。

 

広島にいたときはピザのおいしい店を調べて見つけて、それがナポリのピザだったんですよ。生地が肉厚なんです。それで千葉に来たとき、知り合いのイタリアのパスタのメーカーの社長さんに亀戸のナポリのピザの店を教えてもらったんです。「リンシエメ(Pizzeriae Braceria L'insieme)」ってとこです。

 

ピザの種類は何でもおいしいですよ。そこはハーフアンドハーフもできますから、いろんな種類が食べられます。同じ味を何枚もってしんどいじゃないですか。だからいろんな味を楽しんでます。トマト、ホワイトベース、チーズ、ホント全般、何でもおいしいです。そこだと軽いイタリアン、パスタみたいなのも作ってくれます。

 

あとは僕は広島が長いのでお好み焼きですね。広島風お好み焼きですけど、残念ながら千葉にはあまりないんですよ。愛知には広島風お好み焼きが結構あったし、東京もたくさんあるんですけど。広島風お好み焼き作るのに時間がかかるので、もしかしたらあまり広がってないのかなと思います。

 

スーパーに行くとお好み焼きの粉とか売ってるじゃないですか。広島にはオタフクさんから出てる広島風お好み焼きの粉があるんです。まずそれが千葉にはあんまりないですね。オタフクのソースはあるんですけどね。お好み焼きの粉はあっても、関西風の全部混ぜるやつで。広島風は作り方も違うんです。

 

家の近くのスーパーになくて探し歩かなければならないんですよね。銀座1丁目にある「ひろしまブランドショップTAU」、あそこだったらあるんですけど、そこまで行かなきゃいけないので。

 

広島風お好み焼きのことを広島焼きっていう人がいるんですけど、それは違います。広島の人に広島焼きって言うと本当に怒りますから。名古屋にいるとき、みんなにさんざん説明してました。でも生まれも育ちも広島の宮原和也が、あいつは全然お好み焼きが好きじゃないから、僕が熱く語ってると冷めた目で見てて。

 

ナラさんとかメッチャ言うんですよ。「あれだろ? 広島焼きだろ?」とか。「いや、広島風お好み焼きがお好み焼きですから」って言い返すと、「お前出身どこなんだよ」「僕、埼玉です」「広島関係ないじゃねえか」って。

 

それから広島風お好み焼きの店なのに、メニューに広島焼きって書いてあると、「あ、この人は広島出身じゃないな」ってわかるんです。そういうところは本物じゃないと思うので、行く前に「ぐるなび」使って調べてください。あと僕、ちゃんと「ぐるなび」使ってるって書いておいてくださいね。

 

PizzeriaeBraceriaL’insieme
〒136-0071 東京都江東区亀戸1-31-7
4,000円(平均)

r.gnavi.co.jp

 



佐藤寿人 プロフィール

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ジェフ市原ユースから2000年にトップチームへ昇格。その後、セレッソ、ベガルタ、サンフレッチェ、グランパスを渡り歩き2019年より再び千葉でプレーしている。日本代表としては2006年に初選出されて以降、通算31試合のAマッチに出場した。

1982年生まれ、埼玉県出身

 

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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