(文・ひきポス編集長 石崎森人)
偏見の誕生
報道にある通り、川崎市で19人殺傷という痛ましい事件が起きた。被害に遭われた方々やそのご家族に心より哀悼の意を表したい。
この事件の犯人は「ひきこもり傾向のある51歳」と報道されている。一部の報道では30年ひきこもり状態だったという情報もある。
このような報道で世間が、ひきこもっている方たちへ無差別殺人犯予備軍のようなイメージを持つようなことが起きれば、それはまさに偏見の誕生である。
例えば、無差別殺人の犯人は男性がほとんどだが、だからと言って男性すべてが無差別殺人犯予備軍だと言われたら、そんなことはないと言うだろう。パワハラ上司に元体育会系が多いからと言って、体育会系が危険団体だと言ったら、メチャクチャな理屈だと言われるだろう。
それと同じように、その人の属性の一部が一致するからと言って、その他の人たちも同じように「危ない人」としてみるのは、偏見である。
もっとも恐ろしいのは、偏見を受け入れてしまうこと
自分も昔、ひきこもりから少し外出できるようになった時に、運動不足の解消のために公園に行ったりすると、子連れの若い母親から怪訝な目で見られたことがある。
「平日の昼間にプラプラしている危ない男性」という視線だ。
一度でもそういう経験をすれば「どうせ自分なんて…」という思いが強まり、余計に外に出にくくなる。誰だってそんな視点で見られたくない。
「どうせ自分なんて…」という考えはすべてに対してやる気を失わせる。それによりさらにひきこもる。これではまさに悪循環だ。
もしかしたら、その視線は思い過ごしだったかもしれない。だけど、自分自身に「ひきこもりは、何を考えているかわからない危ない人と思われる」という思いがあったから、その視線を怪訝な目で見られていると解釈したのだろう。
偏見のもっとも恐ろしいところは、偏見を受ける側が、その偏見の目を仕方ないと受け入れてしまうことだ。これほど人の自信や尊厳を失わせるものはない。それによって人は萎縮し、人生の可能性を狭めてしまう。それはひいては社会全体の可能性を狭めることにもなってしまうのだ。
犯人の動機
犯人は自殺し、遺書もないため、本当の動機はわからない。
でも、失うものがなかった時を過ごしたことのある私は、犯人の気持ちがまったくわからないでもない。
この私立の小学校の名前で画像検索すると、ピカピカでパリッとした制服を着た子どもたちが出てくる。また学費からして、経済的に比較的恵まれている家庭の子供たちだろうと想像できる。
きっと犯人には眩しかったのではないだろうか。生まれながらにして人は平等ではない、という事実の具現化が、彼にとってその小学校の子どもたちであった。
中高年にして何一つ持っていない自分と、生まれながらの勝ち組に見える人たち。彼はそこに不平等を見出し、怒りを爆発させてしまったのかもしれない。もちろんだからと言って、彼の犯した罪は全く許されるものではない。
ひきこもりを脱して、でも何もなかった二十代後半の自分なら、私立の制服を着ている子どもたちを見て、怒りはしないだろうが、きっと落ち込んでいたと思う。運命の不平等さを突きつけられているようで。
だけど、気持ちがわかるのと、それを実行することは全く違う。
のどが渇いたからと言って、コンビニの水を万引きしたりはしないだろう。それと同じことである。
だから今ひきこもっている人たちも、もし犯人の気持ちに少し共感する部分があったからと言って、自分を危険人物だなんて責めないでほしい。思うとやるとでは大違いだから。
私たちは憎み合ったり、見下し合ったりなどしたくない
今朝の報道から、インターネット上ではひきこもりに対するバッシングがちらほら出ている。
著名人ですら、どうどうと偏見をすべきだと意見するものもいる。
このような言説が広まれば、ひきこもりの当事者や、かつてひきこもりだった者も深く傷つく。
当事者を追い詰めるのではなく、しっかりと事件を検証し、社会の不安が和らぐ報道や言論であってほしい。
報道では犯人は以前から近所の人とトラブルが起きていたらしい。これはひきこもりとは関係なく、トラブルを起こす人だったということだ。そのことはそのことで対処すれば良かったのだと思う。
行為を責めることと、その人の置かれている状況を責めることはまったく違う。
今こそ我々は、人が人を不安に思ったり、リスクだと恐怖しない社会を目指すべきだ。
そのことがもっとも事件の再犯の抑止力になるはずである。
川崎殺傷事件関連記事
ひきポス編集長 石崎森人による記事
Longrowによる記事
湊うさみんによる記事
田中ありすによる記事