終活ってわけではないが、ずいぶん前から「この連載の最終回はこちらにしよう」と考えていたお店があった。だが皆さんも御存知のとおり突然の「みんなのごはん」更新終了にともない、この連載も最終回を迎えることになってしまった。最終回をアップしたとき、「本来の最終回を書かなければ終えられない」という気持ちが沸々とわいてきて、担当編集に「あと一回!どうかどうか」と泣き入り、こうして番外編を書かせていただく機会を得た。ありがたい。
会社に勤めていた頃の父は忙しい人だった。毎晩夜遅くに帰宅していたので、顔を合わせない日も多かった。ある朝、父が山男のようなヒゲを伸ばしていて驚いてしまったこともある。休日を利用して泊まりで旅行へ行った記憶もない。夏休みに父と遊んだ記憶も数えるほどだ。日帰りで訪れた伊豆の海の青さと、遊園地の波のあるプールの輝き。記憶の色彩は思い出が少ない分、鮮烈な印象をもって僕の記憶に残っている。
中学3年生のある日、たしか夏の終わりの日曜日に、僕は「大磯ロングビーチへ連れて行ってくれ」と父に頼んだ。母と弟は何かの用事で出掛けていた。「今なら二人分のチケット代で済むよ。父さん」と口にしながら、「大人がそのような浅はかな悪知恵に乗るわけがない」と半ば諦めていた。ところが父は僕の想像を裏切り、「今日なら二人分で行けるな!」と乗り気になり、「早くしろ」と車の運転席でハンドルを握っていた。車の中は、父が全身に塗りたくったコパトーンの甘い匂いが充満していた。
80年代、芸能人水泳大会というテレビ特番があった。男女トップアイドルがビキニ水着を着て、色々な競技を行い、時折、画面隅の小さい枠内で歌唱が流れるという内容の番組で、僕は大好きだった。少年雑誌にアイドルのグラビアが掲載されるような時代ではなかったので、水泳大会がアイドルの水着を見られる数少ないチャンスだったのだ。しかもあのアイドルが水着で!動いてる!ワオ!
その番組の会場が大磯ロングビーチだった。ロングビーチは僕にとっての聖地であった。僕は忘れていたのだ。父がその番組を録画して観ているようなガチなボンクラであることを。ポロリを期待させるビキニとゲームは、僕ら親子を魅了していたのだ。トップアイドルのポロリが絶対にないと分かっていながら、それでも一瞬の編集のミスに命をかけていたのだ。親子そろって。
真夏の大磯ロングビーチは大人気で、最寄り駅からの臨時バスは常に満員。小学生の頃、「ロングビーチ行ったぜ!」「背よりもデカイ波が来た!」と武勇伝を語る友達はその日限定で勇者扱いされた。僕も芸能人水泳大会でイキった男性芸能人がしょうもない勇気をアッピールするために駆け上がった飛び込み台の上に立って、キャーキャー持て囃されていたあいつらの勇気がたいしたものではないと証明したかった。なにより、アイドルの水着プロマイドで満足出来なくなっていた僕にとって、ロングビーチでゴムボートに乗っているセクシー・水着ギャル(しかも動く)は、飛び込み台よりもずっと上の高みへ上るためのトリガーになりうると信じていた。
ロングビーチの駐車場に車を停め、さあチケットを買おうという段階になって、父が、壁の向こうで水を弾いているギャルを想って気分が高まったのだろうね、己の尻や胸を撫でまわしはじめた。40をこえたオッサンが公の場で己の体を撫でまわす姿は控え目にいって気色悪かった。「嫌だな…」という僕の心の声が聞こえたのだろうか、父は「本当にすまない」と謝った。それは気色悪い行動を息子に見せてしまった罪の意識からの言葉ではなく、財布を持ってこなかった失態からの言葉であった。きっつー。僕は、そのとき初めて、父が財布を母に握られているのを知った。父から漂ってくるコパトーンの甘い匂いが、悲しかった。
▲「洋食処」が良い感じ。
失意の帰り道、車を走らせながら「今度来るときはそこの洋食屋でメシを食べよう」と父は言った。その後、父とロングビーチでビキニを眺めるチャンスもなく、洋食屋でメシの約束も果たせないまま、父は亡くなってしまった。そのまま約束もすっかり忘れて何年も経ってしまった。
ある日、営業でたまたまロングビーチの前の国道を通ったときに、「父さん、そんなことを言っていたなあ」と約束を思い出した。あのとき、不貞腐れていた僕は助手席の窓から別の景色を見ていたので、父のいう洋食屋を見ていない。どの地点で「約束」を口にしたのかも定かではない。ただ、インターネットで調べてみると、大磯ロングビーチの近くで、国道沿いで古くからある洋食屋というと今回ご紹介するお店「ボンルパ」さんしか存在しないのだ。
▲昔ながらの洋食屋な外観。
それ以来、いつか「ボンルパ」で父と食べるはずだったランチを食べたいと思っていた。不思議なことに年に数回、ランチタイムに営業で通りかかっても、たまたまお店が休みだったり、駐車場がいっぱいだったりして、チャンスがなかった。だが、ついにお店を伺うことが出来た。宙ぶらりんになったままの約束を果たすときが来たのだ。
▲中年のハート鷲掴みな内装。たまらん。
お店はジャズが流れていて昭和の終わりの雰囲気がたっぷりと残っていた。僕が子供の頃はこういう洋食屋がぽつぽつあった気がする。ランチメニューを見ながら、マダム店員さんにおすすめを尋ねる。するとどれも美味しいという答え。大変な失礼をしたと反省した。数十年、駅から遠い場所でやってきたお店である。どれも美味しいに決まっている。
▲甲乙つけがたいランチメニュー。
ソースが酸味の強いタイプということなので、ハヤシカツセット(税別1100円)を頼んだ。カツカレーではなくハヤシカツなのがなんだかいい。ハヤシカツはマダムの説明通りにすっきりとした味で、サクサクでアツアツのポークカツとよくあっていた。トンカツではなくポークカツというのが洋食屋テイストでまたいい。
▲ハヤシカツセットどーん!
ポークカツの衣は、サックリしたタイプで、いわゆるカツ丼にオンしているカツのように単体でドーンと存在感を主張するのでなく、ハヤシとのコラボで美味しさを発揮している感じがすごく良かった。ハヤシも酸味が効いているけれど全体的には優しい味で、家庭的な味という表現がしっくりくるけれど、これ絶対に家庭じゃつくれない味だとしつこくない後味だとわかってしまう。既製品だとどうしても残るんだよね。ハヤシって。
▲サクサクで美味しいポークカツ。トンカツではない。
ポークカツをハヤシにひたしてから一切れ一切れ食べながら、父のコパトーンを思い出しながら、「もしかしたらあのとき父が母に財布を握られていなかったら、ここで父とポークカツを食べていたのかもしれない」などと、やって来なかった未来を想いながら、完食。すごく美味しかった。大磯の「ボンルパ」マジでおすすめ。
▲食後のコーヒーがテーブルクロスとベストマッチ。
随分と時間がかかってしまったけれど、約束を果たせて良かった。もうひとつの約束「大磯ロングビーチへギャルを眺めに行く」はいまだに果たせていない。ただ海岸線を見つめているだけで、通りすがりの水着ギャルから「こっち見るんじゃねえよオッサン」と言わんばかりの冷たい視線を投げつけられる中年男が、単身大磯ロングビーチに乗り込んでいくのはなかなか厳しいものがあるので、残念ながらそちらの約束は果たさせそうにない。これで本当にこの連載はおしまい。今までありがとう。では。
今回のお店
書いてる中間管理職
フミコフミオ
海辺の町でロックンロールを叫ぶ不惑の会社員です(再就職しました)。90年代末からWeb日記で恥を綴り続けて15年、現在の主戦場ははてなブログ。最近は諸行無常を嘆く日々。更新はおっさんの不整脈並みに不定期。でも、それがロックってもんだろう?ピース!
ブログ「Everything you've ever Dreamed」:http://delete-all.hatenablog.com/